総論
◆第37節 そこまでやるのか。そこまでやるのである
第37節 そこまでやるのか。そこまでやるのである
獅子は兎を逐うに、全力を用う。
わたくしは、欧州から、ちょっと帰って来られた諸君のある先輩から聞かされた。
「先生、日本におりましたとき、ホテル学校で、先生が、大きな物音がしても、3秒は振り向くなと申されたのが、どうも、不自然で、抵抗を感じたものです。が、欧州で、少し改まったレストランのウェーターの動作を見ているうちに、わかりました。かれらは、そういうことを、みんな、身につけてるんですね。それが、あたりまえなんですね。そのことの効果も、ヨーロッパに行って見て、よく、実感が湧きました。それから、ヤイ、猫背だの、膝が曲がって、ジジイみたいだのと、先生の、うるさいことといったら。しかし、ヨーロッパに行って見て、いちいち、身にしみて、わかりましたよ、なるほどねと。で、こんど、日本に帰って来て見て、日本で一流といわれているホテルやレストランに行って見て、つくづく、思うんです。コレハイカンワイ。で、先生、いまも、学校で、これをやっておられると思うのですが、わたくしどものときよりは、もっと、ずっと、厳しく、やっていただきたいのです。故国を離れると、まだ、会っていない後輩でも、わが同志だと思うんです。後輩には、わたくしどもより、もっと、立派になってもらいたいのです」
高校生は、概して、音階を正確に歌うが、1/8音階程度までの狂いは、追及されない。ところが、音楽学校声学科の学生となれば、もはや、この狂いを、許されない。 これが、アマチュアとプロの差である。同様にして、諸君の場合、作法について、とくに、厳密なものが要求される。細かいところまで、正確に、身に付けられよ。
もうひとつ、申す。プロは、皿をあたためておいて、そこに、熱いスープを入れる。アマチュアは、熱いスープを、温めた皿に注ぐことが、気狂いじみた道楽であると思う。なにも、そこまで、やらなくともよいと、勝手な判断をくだす。実際にスープを食べ比べてみて、やっと、わかる。
わたくしが、諸君に要求することを、諸君が信じてついてこられないならば、諸君は、いつまで経っても、アマチュアであられる。
ウェルダンを焼けと言われたとき、ミディアムを焼くな。レアを焼けと言われたとき、ミディアムを焼くな。日本人には、この注意が要る。「まさか、いくら、なんでも」と勝手に思うのである。
ぬるい人物は、プロになれない。
観光産業マンという者は、固いこと、杓子定規なこと、きゅうくつなことだけを考えていたならば、到底やってゆけない。
そこで、諸君の中にも、見ていると、「学校であるから、杓子定規にやるのであろう」とばかり、実社会と、分離して考えておられる方がある。
わたくしの校外での身辺には、幸か不幸か、一流のホテルマン、エージェントマンが多い。また、二流、三流の、それらのかたがたも多い。
で、これらのうち、一流のかたがたは、すべて、融通無礙でありながら、おのれの行為について、無言のうちに、すこぶる、厳しいし、その考え方も、細かいところまで、はっきり、解析したうえで、行なっておられる。二流・三流の方々は、こういうところが甘い。このことを、諸君に、お伝えしておく。
学校で、わたくしが諸君に求めていることは、異常なことなのでなく、もし、一流人であれば、そのまま、実社会で行なっていることなのであるということ。
低き山に登るも、高き山の高さを知り得ず。高き山に登りて、はじめて、低き山の低さを知り、他の高き山の高さを知る。なにごとも、一流のものを身に付けられよ。そうせぬと、他のものの程度がわからない。
これを、もう少し、具体的に申そう。
人間の感覚というものは、たとえば、3,000mの高さの山の頂上に立ったとき、2,500m以下、500m刻みで、それそれ、相手の山の高さがわかるものである。が、高さ 500mの山の頂上に立ったとき、高さ 1,000m以上の山の高さは、すべて、高さ 1,000m程度にしか見えない。
別の例で申そう。すばらしく、美味な料理を食べ続けている者は、まずい料理を食べたとき、その、まずさの程度がわかるけれども、いつも、まずい料理しか食べていない者は、たまに、うまい料理を食べても、それが、うまいとのみわかりながら、どの程度に、美味であるか、判定できないものである。
作法について、同じである。
作法の型は、勉強し始めたころ、果てしなく多いものと思いやすい。ところが、あるところから先、ほとんど、増えていかなくなる。
このことがわかっていれば、ひとつひとつの型を、丹念に、分析研究して、身に付けようとする気持ちも湧いてくる。
さて、ここに、次のような種類がある。
A
林實の前
B
教務の前
C
各先生の前
D
友だちの前
E
自家族の前
F
自分ひとりのとき
本校生はその方によって、Aのときだけ、行儀よくされる方から、A〜Fのすべてのときに行儀よくされる方まで分かれておられる。
作法は、不自然なものであり、心がけていない以上、人間は、作法的でなくなるもの。
諸君は、A〜Fのいつでも、作法に留意したまえ。
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