第16節 作法とサービス
- 作法は、サービスの一部分である。
- サービスは、元来、売らなかった。で、作法ある行為も、元来、売らなかった。
- サービスは、現在、売ることを生じている。で、作法ある行為も売ることを生じている。
- では、サービスや作法によって、利潤追求するのか。わたくしは、そう考えない。
- 改めて、「生産」の問題と「支出」の問題を混同したくない。
- アダム・スミスの唱えた Homo Economicos (経済人)の概念を否定しなくてよい。人は、自分の欲望によってだけ生きている者でない。自分の欲望によって生きもするが、自分の損得を離れて奉仕することによっても生き甲斐を感じている者である。
- 商行為とは、何か。「交換」することである。ケインズは、「供給」を「生産」と呼んだ。寄付も交換も生産である。
- 「利潤」とは何か。提供したサービスによって生まれたものである。
- 生産者の主観が、利潤追求ばかりすると、そのサービスは、いやしく、進んでは、ダマシとなる。
生産者は、ただ、ひたすら、サービスすればよい。
利潤とは、結果として生まれてしまうものである。
性交するとき、よい子供を造ろうと思いつつ、性交する者がいるか。性交するときは、ただ、相手を愛するために性交する。
子供は、性交の結果である。子供のことを考えないで性交しても、子供という結果を生ずることは、神(自然)の摂理による。
聖書の「明日をうれうるなかれ」(マタイによる福音書6章34節)もこれである。
- ただ、家計体でも、企業体でも、財政体でも、損をしてはならない。損すると、誰かに迷惑をかける。
- 損をしない方法は、利潤追求することでない。ムダな支出を少なくすることである。
- 「生産」にあっては、ただ、相手のために行なえ。
- サービスも作法も、ただ、相手のために行なえ。利潤追求のために行なうな。
総論