第30節 作法と大衆
- 現代が大衆時代であることは、申すまでもない。が、大衆が、粗野である時代は終わりかけている。豊かな大衆は、ノーブルなものを求めてゆく。
- ノーブルなものは、窮屈であるから、大衆から好まれないと信じられてきた。が、ノーブルなものを眺めているぶんには、窮屈でなく、ノーブルを演出する者にとってのみ、窮屈である。
- ノーブルな趣味は、貴族的なものであるから、人間性から離れたものであると信じられてきた。ところが、人間の巧みが進んでゆくと、どうしても、貴族的なものになってしまう。それでは、貴族的なものの、どこがいけないか。それは、ノーブルなものを、貴族が独占したことに、いけなさがあった。
- ノーブルなものを虚栄心の対象のように思い込む者は、幼稚な錯覚に陥っていると見る。
- わたくしは、以上の考えから、貴族らしさを表わす作法の存在とともに、庶民らしさを表わす作法の存在を否定する。そうして、しかも、ノーブルであることを、求める。
- 次に、大人(たいじん)は、なにもなさず、小人が、その身辺の世話万端をするというのが、東洋での伝統的習慣である。そこで、大人たる者は、こせこせ、手を動かさないのが、作法ということになる。
しかし、いま、世界人としての作法を考えるならば、これでは、いけない。
自分より、身分の低い人に対しても、平等に世話されよ。
総論