第7章 飲食・喫煙 ◆第35節 紅茶・コーヒー・砂糖
前節 次節

第35節 紅茶・コーヒー・砂糖

【参考】茶
【参考】コーヒー
【参考】ココアとチョコレート
【参考】砂糖
【型1】紅茶、コーヒー作法
【参考】ティー、シュガー、ミルク
【参考】ミルクとクリーム


【参考】茶
  1. 茶の飲みはじめは、インド。だいぶ、古い。

  2. 中国のデータでは、AD230年ごろ、揚子江の下流で、茶の葉をふかして固め、タマネギ、ショウガなどを加えて、熱湯を注いで飲んだという。はじめ、薬用であったが、うまいので、一般飲み物にもなった。

  3. 茶の普及は、茶道をおこさせた。AD780年代に、唐の陸羽(りくう)は、「茶経」2編をあらわした。
    それまで、荼(だ)と書いて、こん日の茶をもあわせ意味したのを、陸羽が、茶という文字をつくって、独立させた。
    この茶経には、茶の立て方、飲み方、その精神が説かれていた。のち、陸羽は、茶神と呼ばれた。

  4. 1610年、ジャワのオランダ東インド会社は、中国の緑茶をオランダ本国に送った。ヨーロッパ人には、ビタミン欠乏症が多いから、受けた。オランダは、大もうけした。

  5. が、この緑茶を運ぶとき、インド洋上で、発酵してしまうものを生じた。捨てようと思ったが、もったいないので、それに湯を注いだところ、真赤な液となった。恐る恐る飲んでみると、うまい。これが、紅茶である。つまり、緑茶とは、茶の葉をふかして、もんだもの。紅茶とは、茶の葉を発酵させたもの。

  6. 茶→CHA→CHIA→TIA→TEA

  7. しかし、ヨーロッパでは、その後、イギリスが、紅茶の本場となる。
    1642年、クロムウエルの清教徒革命がイギリスに行われ、イギリスは、禁酒国となり、そこで、ティーが、イギリス人生活に定着した。で、そのあと、禁酒が解かれてもティーを多く飲む習慣をかえなかった。1つには、イギリスに地中海のようなレモンがとれないから、元来、レモネードが高級品であったということ。もう1つには、イギリスの東インド会社保護政策として、国民に多くティーを飲む習慣を続けさせたかったということ。こういったことがあったと見たい。
    もっとも、クロムウエル自身は、ティーも飲まず、水だけを飲んでいたようであり、これは、いまも、清教徒の一部に残っている。

  8. イギリスで、ティー・パーティーの習慣を発生したのは、クロムウエル政権のあとのスチュアート朝になってからのようである。1600年代の終わりのころであろうか。ある いは、すでに、オランダに、その習慣があったともいう。

  9. ティー・パーティーでは、ティーを、左手に、菓子を右手に持って飲食するようになった。で、ティー・カップを供する者は、カップの取手を左に向けておくようになった。

  10. イギリス人は、ナポレオン戦争中に、菓子抜きのティー・パーティーを行なうようになった。で、このころ、コップをまわして、取手を右にしても、失礼とされないことになったとか言う。つまり、はじめに出すときだけ、取手を左にして置く。イギリス人は、しか し、このはじめの左取手をなつかしみ、やめようとしない。飲む者が取手を右にまわすとき、「さあ、お茶にしましょう」という気分が出るらしい。ビクトリア女王のとき、これがティーの正式作法とされた。で、こん日も、イギリスの公式パーティーでは、まだ、それを、やっている。

  11. 日本では、1900年ごろから、宮内省作法で、これを採用し、ホテルでは、帝国ホテルから始めて、これを行なってきた。

  12. イギリスをのぞく、欧米諸国では、この左取手を採用したり、しなかったり、まちまちであり、一国の中でも、まちまちである。アメリカでも、まちまちであるが、アメリカ陸軍礼式では、左取手をやめている。で、日本でも、進駐軍接収ホテルで、左取手をやめさせられたところが何軒か、ある。

  13. ティー・スプーンは、カップの手前にして出し、客は、ティーをかきまぜたのち、カップの向こう側に置く。理由は、かんたんで、手前に置けば、スプーンを取りやすい。スプーンが向こう側にあれば、客がカップを手にするとき、カップの底で、スプーンを手前に蹴り出さない。

  14. ティーを出すとき、スプーンをカップの右に、タテとか、ナナメとかにして置く方法が第2次大戦中、ドイツ軍で考えられた。数あるティーに、スプーンを添えるとき、そのほうが、はるかに速いし、ティーを出すときも、スプーンの安定がよい。客にしても、スプーンをとりやすい。第2次大戦後、アメリカ陸軍が、これを採用し、大学食堂が採用し、工場給食におよび、カフェテリアに及んだ。いまでは、ホテルも採用するところが多くなった。日本でも1965年ごろから、これに変えるホテルを次第に生じてきている。

  15. フェアモントホテルの佐藤先生が、イギリスのあるレストランに入られたときの話である。
    イギリス人は、普段、紅茶を飲むとき左手にティー・カップを持つのであるが、わたくしの隣のテーブルに座っていた「おばあちゃん」が右手にティー・カップを持って紅茶を飲んでいたのが印象的であった。このような、特別な作法もあるということを知っておかれよ。
【参考】コーヒー
  1. AD870年代に、ペルシアでコーヒーを飲んでいる。コーヒーの果実か核かを火にあぶるか、鍋で煎るかして、こがさぬ程度に茶色にし、それを乳棒と乳鉢で砕き、それに、熱湯を入れて、飲んだ。
    まだ、コーヒー豆を煎って飲む方法は知っていなかった。

  2. AD1000年ごろ、エチオピア原産のコーヒー豆がアラビアに伝えられ、豆を、そのまま煮詰めて、飲んでいた。薬と考えたようで、まだ、一般化してなかった。

  3. 1450年ごろ、このアラビアのコーヒーは、豆を煎ってから、飲む方法にかわった。イスラム教では、この飲み物を、悪魔の飲み物か薬用の飲み物かと、大議論した。そうして、許可した。で、急に、広まった。

  4. 1500年ごろになると、トルコで、コーヒーを飲ませる喫茶店ができた。このような店は、やがて、エジプト、シリアなどにもできた。

  5. このようなコーヒー店は、しかし、1524年に、メッカで、禁止になった。売春宿に化けてきたからである。で、コーヒーは、家庭で飲まれるものに、かわった。

  6. 1554年になると、コンスタンチノープルに「カフェ・カーネス(華麗なコーヒー店)」というコーヒー店が開店した。これが、ヨーロッパにできたコーヒー店第1号である。ここには、商人、外交官が集まった。

  7. 1616年、アラビアのモカ港から、モカ・コーヒーが輸出され、オランダに荷揚げされた。これが、ヨーロッパにコーヒーの入った最初である。

  8. ついで、1637年に、フランスから、大量のコーヒーが、ロンドンに入り、一般庶民に飲まれるようになった。

  9. 1652年、ロンドンに最初の喫茶店ができた。コーヒー豆屋を行なっていたトルコ人ロッセがテント張りのコーヒー・ハウスを開いたもの。たちまち、ロンドン名物の1つとなった。

  10. 1660年、オランダの外交官ニイホフが、コーヒーにミルクを入れて飲むことをやってみた。舌ざわりがよく、たちまち、普及した。

  11. 1699年、オランダ人は、インドネシアでコーヒーの栽培に成功した。種子は、モカから移した。

  12. 1600〜1700年代のヨーロッパでのコーヒーの飲み方は、要するに、こん日の、ESPRESO であって、噛みタバコの隣ぐらいに考えられていた。

  13. 1800年代に入ると、南米に国々が生まれはじめた。同時に、この各国でコーヒー栽培が進められ、ブラジルが、もっとも有名である。
    ブラジル・コーヒーは、すっぱく、ESPRESSO にしても、あまり、うまくない。で、うすめ、砂糖を入れて飲む方法が考えられた。こん日、アメリカのコーヒーは、うすく、ガブガブと、何杯でも飲めるものになっている。が、これは、ブラジル・コーヒーの影響を強く受けているものである。

  14. モカ(アラビア)、ジャワ、ブラジルのコーヒーを混ぜて飲む流儀は、イギリスで、だいたい、1800年代に入ってから始められ、のちにアメリカのお家芸となった。

  15. コーヒー・カップの取手は、はじめから、右にして出し、スプーンの扱いは、ティーと同じである。

  16. 日本では、コーヒー・カップの取手をティーと同じように左にして出すところが、第2次大戦後、1955年ごろから、増えはじめ、1965年ごろになって、これはまずいと気づき、また、止めてきている。
    この、やめるとき、「誰が、いったい、左にしたのか?」「帝国ホテルだ」「それにみんな、右へならえしたというわけかい」「そうだ」という言いならわしを生じている。これでは帝国ホテルがかわいそうである。わたくしが、はじめて、帝国ホテルで食事をしたのは、1922年であって、それ以来、百数十回に及んでいるが、わたくしの知るかぎり、帝国ホテルのコーヒーが左取手になっているのを見たことがない。ただし、ティーのほうは、つねに、左取手となっており、これは、駐留軍接収時代にも、かえなかった。
    コーヒーを、左取手にしたのは、1955年以降、新設し、帝国ホテルのまねをしようとしたホテルの中から生じてきた奇習である。
【参考】ココアとチョコレート
  1. カカオ豆は、680年ごろ、中米のマヤ王国で栽培していた。そういうデータがある。

  2. これを、1520年、スペイン人コルテスが発見。このとき、アズテカの王さま以下が飲料にしたり、砕いて、食べたりしているのを見た。で、この豆を、ヨーロッパに運んで来た。

  3. この豆の木を、アズテックの原語で caca と言ったらしい。

  4. しかし、まもなく、スペイン領メキシコで、これを cacao と簡単に呼ぶようになった。
    それから、この木と、この豆を cacao と言う。

  5. ところで、この豆をつぶした飲み物は、苦かったので、現地語で、chocol (にがい)+ atl(水)= chocolatl と呼んだ。
    ついでに、この飲み物のもとの粉も、chocolatl としておいた。

  6. さらに、1624年になって、スペインでは、この chocolatl の粉を固めて、固形物にすることに成功した。その製法は公開しなかったが、これは、全ヨーロッパに、はなはだ売れた。
    スペイン人は、この固形物を、chocolate(チョコラテ) と呼んでいた。

  7. この固形物と粉と飲み物を、フランスでは、chocolat (ショコラ)、ドイツでは、chocolat (ショコラート)、イギリスでは chocolate (チョコレイト)と呼んだ。

  8. さて、1828年に、オランダ人ヴァン・ホーテンは、この chocolatl の粉の脂肪分を減らしてみた。そうしたところ、かおりのよい、さらっとした飲み物を得た。で、これに、cacao と chocolatl をかけあわせ、「 cocoa 」という商品名をつけた。この cocoa は、はなはだ売れた。

  9. で、日本、1800年代の後半から、これらが入ってきていた。
    日本人に、ヨーロッパ人が、牛乳を飲めといっても、気持ちが悪いといって飲まないとき、cocoa を入れてやると、飲んだ。明治維新後、日本人は、牛乳を飲むよすがに、cocoa を入れた。で、日本では、まず、「ココア」という粉の名前が広まった。

  10. また、イギリス、アメリカから、固形の、にが甘い菓子が入ってきた。これは、英語で chocolate というのであった。これには、種類があり、日本でも、材料を輸入して、つくりはじめた。「板チョコ」「棒チョコ」「あめチョコ」などが出まわった。

  11. そうするうちに、この材料の豆は、直接、メキシコから入れたほうが、安あがりであった。これは「カカオ豆」と呼ばれた。

  12. で、とうとう、日本では「カカオ豆」を入れ、「チョコレート」をつくるだけでなく、「ココア」もつくるようになった。

  13. さて、その先がある。
    日本人が、欧米に行って、「ココアをくれ」と注文したものとする。と、ヴァン・ホーテンの cocoa が出される。で、もし、「チョコレートをくれ」と注文したものとする。脂肪分のギラギラした飲み物を出される。
    これは、いまでも、まともな店に行けば、そうである。
    いい加減のところに行っては、「チョコレートをくれ」と言っても、ココアが出てくる。そうかと思うと、「 cocoa 」と言っても、「ない」と答える。「では Van Houten」と言うと、「それなら、ある」という。しょうがない。
    この cocoa と chocolate を、はっきり分けて考えようとする店が比較的多いのは、やはり、オランダとイギリスであろう。そのほかの国では、すべて、chocolate で通ってしまっているようにも思う。
【参考】砂糖
  1. 砂糖づくりは、AD530年代に、中国で始まった。それまでは、サトウキビをまるごと煮て、乾かしたもので、石蜜と言っていた。それを、このとき、サトウキビの汁をしぼり、これを煮て乾かし、さらに精製して粉にして砂糖を作ることを考え出した。
    しかし、サトウキビは自生であったし、そう、ざらにあるものでないから、この砂糖は、はなはだ、珍重された。

  2. この砂糖精製法は、まもなく、インドから、ササン朝ペルシアと、サトウキビ自生地に広がり伝わった。

  3. モハメットはアラビアに、イスラム教をはじめ、622年(回教暦元年)、ヘジラに都を定めた。
    632年、モハメットはなくなったが、641年、サラセン軍は、ササン朝ペルシアを破り、ササン朝は、その翌年、滅亡した。
    このあたりで、サラセン人は、ペルシアで、自生サトウキビを見つけ、また、ペルシア人が、それから、中国式の方法で、砂糖をつくっているのを見た。
    で、サラセン人は、このサトウキビをアラビアに持ち帰って、植えてみた。で、成功した。650年代であって、人類のサトウキビ栽培のはじまりであったともいう。同時に、砂糖マスプロのはじまりとなった。サラセンは、砂糖という強い商品を持った。

  4. 661年、サラセンはムアウィエ1世のもとにウマイヤ朝、すなわち、サラセン帝国をスタートした。

  5. 697年、サラセン帝国は、北アフリカを征服した。で、アラビアよりも、もっと、サトウキビの栽培しやすいエジプトで、大量の砂糖をつくりはじめた。

  6. 711年、サラセンは、西ゴート族を破り、イベリア半島を支配した。

  7. 756年、イベリア半島のコルドバに、新ウマイア朝ができた。西カリフ帝国であり、サラセンの東西分裂であった。

  8. サトウキビは、このイベリア半島でも栽培され、砂糖は、高価な商品として、ピレネー山脈をこえて、ヨーロッパ各地に、こぼれ入っていた。
    このイベリア半島の西カリフ帝国は、1031年まで続いた。そのあとは、分裂し、1492年まで、かかって、次第にキリスト教国になめとられていった。

  9. そういう中で、1161年、エジプトで砂糖精製法が改良された。すなわち、その精製過程で、石灰を加える方法で、これによって、砂糖が、いっそう、甘くなった。 この方法は、インドから中国にまで伝わった。しかし、サトウキビの生えないピレネー山脈以北のヨーロッパに、その新製法を伝えても無意味であった。

  10. イタリア、そうして、ベネチア、ジェノアといった港街から、ルネッサンスがおこってきたのと、こういったところに多く砂糖が届けられていたのと因果関係を感じる必要はないか。
    スペインから、イタリアに至るのと、イギリスに至るのとは、海路をもってすれば、ほとんど、等距離であるということ。そうして、オランダは、もっと近かったということ。 これを、どう見るか。

  11. 1600年代に入るや、英仏蘭3国が、バタバタと、東インド会社をつくっている。いずれも、サトウキビ栽培に狂奔している。対アメリカ政策でも、サトウキビ栽培は大きな要素であった。
    で、反対に、サトウキビから遠い国ほど、進歩が遅れた。

  12. さて、1747年、ベルリン大学のマルクグラフ教授は、いままで、家畜の飼料にしか使われていなかった「甜菜」から砂糖を取ることに成功した。砂糖資源が、いままで、南方にしかなかったものが、北方からも得られることになった。これは、大きなできごとであった。

  13. 洋食では、砂糖壺に、よく、甜菜糖が入っているので、ヨーロッパの砂糖が甜菜糖から始まったように考えられがちである。が、そうではないのである。

  14. わたくしは、食卓に座ったとき、砂糖を眺める。で、ときどき、ここに書いたようなことを考える。

  15. ただ、もうひとつ、思うことがある。砂糖は、人間の疲れを、はやく取る。が、人間を、はやく、燃え尽くさせてしまう力をも持つ。

  16. アリは、砂糖に群がる。ハチは、糖蜜を集める。人間と砂糖。これを、どう考えるか。
【型1】紅茶、コーヒー作法
  1. 紅茶、コーヒーをいらないというとき、コップを伏せられるな。 海外でも、伏せる人があるが、そのときも、こちらは、伏せられるな。

  2. ウェーターは、紅茶、コーヒーのカップを、客の正面に出すべきである。
    しかし、当今として、フルーツとともに出し、このとき、カップを客の右前に出すもの。そのようなときは、カップを、自分の手で、まん前に持ってこられよ。

  3. ミルクを入れるときも、レモンを入れるときも、砂糖が先である。

  4. 砂糖入れを手にとって、紅茶、コーヒーのカップのそばに持ってくるのが作法である。そうしないと、砂糖がテーブル上に、こぼれやすい。

  5. 砂糖をテーブルの上にこぼしてしまった場合は、そのままにしておくか、ウェーターを呼んで処理してもらわれよ。

  6. 砂糖、ミルクなどは、さっさと自分の分を取ってから「お先に」と申されよ。

  7. 紅茶、コーヒーのかきまぜ方の回転方向は、どちらでもよい。
    コーヒーのとき、斜めに、回してもよい。

  8. 紅茶、コーヒーをかきまぜたあと、スプーンは、カップの、向こう側に置く。手前側に置くのは子供だけ。

  9. 紅茶、コーヒー、ワインなどのコップを持つとき、薬指と小指があいているので、重さのバランスをとるためと飾りの意味とから、小指を、はね上げる方があるが、全員がタキシードやイブニング・ドレスのような大げさな服装をしているとき以外は、かえって、 きざに見えるから、なさらないほうがよいし、ときには、かえって下品に見えよう。

  10. 紅茶については、客から向かって左側に把手がくるようにサーブされる。これは、元来、紅茶を飲むとき、右手でお菓子を食べ、左手でコップを持つ習慣から、そうなったものである。

  11. レモンティーを飲むとき、中のレモンは受け皿の向こう側に出してから飲まれよ。

  12. 自分のスプーンは、貸されるな(今晩、体をまかせるという意味があるからである)。

  13. 紅茶、コーヒーが出されたならば、そこに灰皿が出されているかぎり、タバコを吸いはじめられてよい。

  14. コーヒーを飲みながら、たばこを吸われてもよい。が、片手にコーヒー・カップ、もういっぽうの手にタバコというように、両手を同時に使われるな。タバコを灰皿に置いてから、コーヒーを飲むようにされよ。

  15. 紅茶、コーヒーは、飲み残しても失礼でない。

  16. 紅茶、コーヒーを飲み残す場合のサインとして、ソーサーごと自分の正面、奥のほうへ15cm ほど、ずらして置かれよ。
【参考】ティー、シュガー、ミルク

イギリスにおいても、紅茶をいただくとき、ティー、シュガー、ミルクまたはレモン、という順番がある。
しかし、イギリスといえども、ティーとミルクの順番が、テレビで論争となったりしている。
<例>
   1. ティー、シュガー、ミルク
   2. ティー、ミルク、シュガー
   3. ミルク、ティー、シュガー

【参考】ミルクとクリーム

日本においてコーヒーなどをたのむと、自然にコーヒー・クリームがついてくる。日本人は、それを、しばしばミルクと言う。この概念から、欧米において、コーヒーをたのみ、「… and milk」というと、グラスにミルクが入って、まったく別に出てきてしまう。「with 〜」という表現がよい。しかし、「with milk」という表現は間違いであり「with cream」という表現が適切である。
ミルクとコーヒー・クリームは違うのである。
・「…and…」は、カップと別に出てくる。
・「…with…」は、カップに入って出てくる。


第7章 飲食・喫煙
[タバコ作法] [チューイン・ガムを噛んでよいとき] [パーティー外での立食作法] [拝借]
[テーブル・マナー総説] [洋食食事時間の長さ] [レストランヘの到着] [レストランヘの入場]
[レストランでの着席] [テーブル・コース] [メニュー] [テーブル・セッティング] [正客]
[会話] [ウェーターとの応対] [テーブル・ナプキン] [スプーン、ナイフ、フォーク] [水・酒]
[パン、バタ] [スープ] [オードーブル] [取り分け] [魚料理の食べ方] [肉料理(鳥肉)]
[肉料理(牛肉・豚肉・羊肉)] [温野菜] [サラド] [左ききの方のために] [塩、スパイス]
[ソース] [デザート・コース] [後菓] [フルーツ] [チーズ] [紅茶・コーヒー・砂糖]
[料理の残し方] [食事中のその他の注意] [中座など] [支払い・チップ] [退席、解散]
[食事のお礼] [飲食のあるパーティー] [宴会での席次づくり] [宴会への到着] [宴会への入場]
[宴会での乾盃] [宴会でのカクテル] [テーブル・スピーチ] [立食パーティー] [朝食作法]
[中華料理における食卓作法]
ホーム
前節 先頭行 次節