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1998年6月6日
講演
「大町山岳博物館/その生い立ちとライチョウ研究」

「大町山岳博物館/その生い立ちとライチョウ研究」

宮野 典夫


皆さん、こんにちは。いま略歴等紹介していただきまして、お尻がかゆくなるくらい恥ずかしいんですが、人それぞれいろんな形で今の仕事ですとか、生き方を決めるきっかけになったことってたくさんあると思うんですが、私の場合は、大きくいって二つあると思います。

一つは中学時代に生物部に入ったこと、もう一つは大学に行って私の高校時代のキャンパスに似たような雰囲気の大学に入れて、そこの大学でいい先生にめぐり会えたと。

中学時代に生物部に入った理由は単純な理由でした。まず、生物が好きだということ、決定づけたのは、今日ここにいらっしゃってます山岳博物館友の会会長の荒沢進さんなんです。荒沢さんが陸上部をやってまして、私も小学校に通うのに4km歩いてました。遅刻しそうなので毎日走ってまして、走ることは得意だったものですから、中学入ってとにかく走るところに入ろうということで、陸上部に入ったんです。そこに荒沢さんが部長としておりまして、そのときはじめて荒沢さんと会ったんですが、「借馬」というところがありますが、中学から2km、そこを往復してこいと、先輩にいわれて、「ただし無理もするな、遅れもするな、自分のペースでやれ」という指示をいただきまして、同級生の倉科君という方と一緒に走りはじめて、結局最後まで彼と一緒に走ったんですね。で、かなり早く戻ってきた荒沢さんが、「一緒に4kmも走って一緒に自分のペースで戻ってこれるわけがない。お互いに譲り合ったか、どちらかがズルをしたのか、どちらかじゃないか」といわれまして、そのときはじめて、陸上部ではなくて私は好きな生物に取り組み、いわゆる自分の道を歩けといわれたような気がしました。そのきっかけを作ってくれたのが荒沢さんです。

大学に行きまして、いい先生とめぐり会えたというのも、一つのライチョウ研究をするのに役に立ったことだと思います。その話をすると長くなりますので。

ライチョウの話の前に、実は6日ほど前に山岳博物館の狸が子供を生みまして、狭いところで生んだんで、私どもが妊娠していることに気がつかずに親が隠れるような場所も作ってあげられませんでした。親にはかわいそうなことをしたんですが、結局その親は自分の子供を育てるようなことができないで、人間の手で育てざるをえないということで、職員持ち回りでいま子供を育てています。

その狸の話なんですが、まだ、博物館が木造の頃ですね。5匹いた狸が4匹になってしまったんです。どうやって数えても4匹しかいないんですね。狸って化かすから、みんな化かされたんじゃないかって、一人ずつ数えに行くんですけど、昨日までいた狸が4匹しかいない。どこを捜してもいないし、あるといったらこのくらいの排水溝の蓋くらい。実は隣で飼育しているのがアナグマだったんですね。ちょうどこのくらいの錆びた金網が少し広がったところがある。お腹のすいたアナグマが実はその狸を引きずり出してしまったんですね。アナグマのほうへ。自分の巣の中へ持っていってしまったんで、どう数えても、狸のほうには4匹しかいなかったんです。そんなこともありました。

もう一つ、これは新しい博物館ができてからですが、次の講演をされる方が千葉さんとお聞きしているんですが、博物館の館長をされた方です。千葉さんと2人で秋、付属園のほうを掃除してましたところ、一万円札が落ちていました。それが狸の前だったんです。千葉さんと2人で「これはいまに葉っぱに戻ってしまうぞ」というような話をしながら掃除をした覚えがあります。動物をやっているといろんなおもしろいことがおきます。狸が6日前に生まれて、そういったことをいろいろ思いながらやっています。

本題に入ります。「大町山岳博物館/その生い立ちとライチョウ研究」ということですが、私は博物館が大きく関わった鳥というのは、オオハクチョウとライチョウ、この二つではないかなと考えています。

オオハクチョウと山岳博物館というのは切っても切れない縁にあります。それがどういうことかといいますと、歴史的な形で、数字が並んだり、古い話しをしますが。昭和22年5月3日、これは新憲法施行の日になっております。それから憲法記念日という名が制定されたわけです。その当時は、大町はまだ市ではなくて町ということでした。この日、町立の大町図書館が公民館として新しく発足したわけで、戦後間もないこの時代に、大町の青年たちはなにか夢を求めていた、というふうに聞いております。この公民館という新しいものに取り組んでいくなかで、やはり新しい夢を託して、多くの青年たちが集まり動き始めたというふうに聞いております。

40周年の記念のときにいろんな写真パネルを作りました。それを今日博物館から借りてきました。大町の公民館というのはこれがそうなんです。今この建物はございません。つい最近まであったんですが、今この場所は保健センターとして新しい建物になっています。

実はこの日に大町市出身で当時松本市立博物館の館長をされていた、一志茂樹先生が講演会をしまして、新しい地方文化向上のためには、郷土の持っている特殊性を活かしたものがいかがと。大町で郷土の特殊性といったら、やはり北アルプスだろうと。いうことで、北アルプスの大自然をもう一度、見直さなければならない、というふうに説いたそうです。じつはこのときの講演の内容の文書があれば非常にいいんですが、いろいろ探してみたんですけれど、当時聞いた人達が、こんなような話をしたよ、という程度でまとまったものが無いのが残念なんです。この講演に大町の青年たちはいたく感激をしたそうです。

第1回友の会総会(中央が一志先生) この、一志茂樹先生なんですけれど、私が初めて会ったのは、昭和50年の8月だったと思います。前にもあったんですが、友の会を、もう一度発足させようということで、第1回友の会総会の基調講演に、一志茂樹先生に来て頂いたんです。そのときに「安曇平の自然と文化」というテーマで講演していただきまして、私は今まで話してきた前段の部分を知っていましたので、非常に緊張をしながら聞いた記憶がございます。これが私が初めて一志先生と会った時に一志先生が話してくださった当時の模様です。これは公民館の2階の講堂で行いました。したがいまして、昭和22年の当時図書館だったんですが、公民館をつくろうといったときのくしくも同じ会場で私はこういうことが出来まして、このときも私も感激を致しました。

昭和22年5月3日の講演会からしばらくして、10月29日に公民館の組織が決まって、そのなかに郷土部というのが出来たそうです。郷土部は具体的な活動として、大町の地理的条件からして、山岳博物館というのはどうかなということで、山岳博物館の設立を目標に掲げていろいろな活動をしようと決めたそうです。

次の年の6月、そういう活動をする中から大町観光協会というのが設立したそうです。この観光協会の設立というのが、じつは博物館の設立の第一歩となったと記録されています。

で、博物館をつくろうというところから観光協会の設立が勢いを増したところで、当時の青年たちが町当局に対する陳情ですとか、町民大会の開催ですとか、毎晩のようにマイクを持って遊説というか、博物館建設がどうのこうのということで回って歩いたそうです。そういう地域運動をする一方で、植物採集ですとか、学習会などソフト面の活動も盛んに行われていた。これらの活動が、いまでいうボランティアですね、当時、無料奉仕といったそうですが。そういう形でお金にかかわらず皆がそれに携わった、というふうに聞いています。そんなことで、山岳博物館が目標という形で、当時としては夢としてあつかわれていたものなんです。

山岳博物館記録のまえがきを読むと長くなりますので、後で見てください。これは博物館が建って10年後に教育長が書いたものです。

いまの観光協会が出来たのが昭和22年。そのあとしばらくして、昭和24年1月17日、舞台はこの青木湖に移ります。1月17日というと大町地方でもかなり寒くて、雪がたくさん降る時期になります。この日も前日までかなり吹雪いていたそうなんですが、17日の朝、 地元の方がこの青木湖に27羽のオオハクチョウが舞降りたのを見つけたそうです。ところが地元の猟師が、舟で漕いでいって、そのうちの1羽をそこで鉄砲で殺してしまったそうなんです。あとから調べたら、これは雄であったそうなんです。昭和24年といいますと、戦後間もない時代で、禁鳥、いまでいえば保護鳥ですが、禁鳥であろうがなんであろうが、とにかく背に腹はかえられないという時代でしたので、そんなような行為に走ってしまったと思うんです。

それを聞いた当時の大町南高等学校、いまの大町高校の生物の先生である羽田健三という先生が、殺してしまったものはしょうがない、せめてその剥製だけでも作りたい、というふうに思って、その猟師のところに行きまして、撃ち殺したんならそれは仕方ないんで、死体だけでも譲ってもらえないかと、いうような交渉をしたそうです。ところが、その猟師の人も、オオハクチョウは禁鳥だということを知っているようで、なかなか自分が撃ったということも言わなかったそうです。で、羽田先生はその当時、博物館を建設するための資料収集ということで、国のほうから禁鳥でも、捕獲できる許可証をもっていたそうなんです。これは私が撃ったことにするんで、あなたには迷惑をいっさいかけないから譲ってくださいと、いうようなかたちで、ようやく譲っていただいたそうです。ただ全部もらってもあれだから、お肉をあなたにあげますからということで、肉だけ猟師のかたに差上げて、学校に帰って、その剥製を作った、ということだそうです。

鉄砲でバーンとやったときに、あとの26羽は当然びっくりして逃げてしまうわけです。ところが、後日、学校の生徒のほうから、常盤という地籍のある農家で、鶴を飼っているという話を聞きました。このへんに鶴がいるわけがないから、たぶんそれはハクチョウじゃないかと、その先生が見に行ったそうなんです。やはり、オオハクチョウ、それは雌だったそうですが、ある農家の軒先で飼育をされていたそうなんです。農家のかたに話を聞くと、1月20日、高瀬川でうろうろしているオオハクチョウを見つけて4人がかりで捕まえたそうです。4人がかりで捕まるくらいですから、かなり衰弱していたんじゃないかと思うんですけれど。で、家へ持ってきて、その当時の時代ですので、肉屋さんとか料理屋さんに、こんな鳥がいるんで買わねか、といって売ろうとしたそうなんですね。ところがやはり、みんな初めて見るハクチョウですし、非常に気高い感じがして、なかなか手が出せなかったということで、生徒を通じてその羽田先生の耳に入るまで農家で飼われていたそうなんです。羽田先生はそれも譲ってくださいと、自前でお金をはたいて譲ってもらい、大町高校でオオハクチョウを飼育することになったそうなんです。その模様を羽田先生がある本に書いたのを読みあげてみます。このハクチョウについて、これを飼育するということに関していろいろ悩んだそうですけれど。

「最大の難問はこれを飼育する禽舎をどうするかということであった。幸い私の勤務していた学校に屋外動物飼育舎があったので、これに入れておいたが、水槽がないので、早くなんとかしなければならない。当時、山岳博物館の創設運動を青年団の幹部や、その他の同志と2ヵ年の運動の後にようやく公民館の事業の一つに取上げてもらったばかりで、公民館の運動審議会で創設に関する一切の審議が行われていた。審議会にはかると、音楽や歌やおとぎ話によく聞く白鳥を子供たちに身近に見せられるのがうれしい、禽舎をぜひ設計して飼ってくれる、という。ところが鉄筋コンクリートにすると、当時7万5千円を必要とすることになった。ところが、飼うは良いがそれほどの大金を出してまで飼育する必要があるものかどうか、と審議会はいうまでもなく町議会の論議も分れて町の大問題になってしまった。ある人は鳥どころではない、いま人間が衣食住に追われているとき7万5千円もあれば庶民住宅が1軒建てられる。鳥小屋はもちろんの事、博物館などとんでもないことだ、と直接私に食ってかかる始末であった。私は博物館の建設運動に3人の同志を持っていた。一人は記者、(この記者というのは今の毎日新聞の大町支局の局長さんだったそうです)、もう一人は駅に勤める人、(これは阿部酉与さんというJRの前身の国鉄のかたです)。もう一人は青年団の幹部であった(この青年団の幹部というのは羽田健三さんの弟さんの内山慎三さんというかたです)。私は同志と次のようなことを説いてまわったのである。一軒の個人住宅を建てることと全町民の精神的レクリエーションに役立てることを同一視することがそもそも間違っている。1万5千人の人口のあるこの町で一人5円を貯金すればオオハクチョウはいうまでもなく、その他の水禽をも永久に楽しめる水禽舎ができるのだ。町の1億円の予算から7万円ばかりの文化費を出して、町民の総意に反することはないはずだ。」
大町駅前のハクチョウ というふうに説いてあるいたそうなんです。これが効を奏しまして、半年後の8月、今の信濃大町駅の駅前に水禽舎が建てられたそうです。この水禽舎にいるハクチョウがこれなんですけれど。

残念ながら、この水禽舎も今現在はありません。数年前まであったんですが、車時代のなかで、駅のロータリーの真ん中になっていたわけなんです。排気ガスやら騒音やらで、もう、24時間、動物をこの中で飼育するということに対して、動物愛護の精神からいっても、相応しくないということで、この水禽舎を取り壊してしまいましたが、この丸い円の基礎にあたる部分というのは今でも見ることができます。私もこの水禽舎で、このハクチョウはいませんでしたが、それに代るコブハクチョウ、水鳥の世話をしてきたわけなんです。

これがきっかけとなりまして、これが博物館のできる前なんですけれど、第1号の展示物という形で、駅前の水禽舎というものができたわけです。ここまでくれば、博物館の創立というのは町を上げてという形にまで話が発展してきまして、昭和26年11月1日、この大町山岳博物館が誕生したわけです。

先輩のお話を聞いたり、こういういろんな読物を読んでも、このオオハクチョウの問題というのが、山岳博物館を設立した、一番大きな原動力になってきたのではないかと感じております。

このハクチョウなんですけれど、昭和35年3月、死亡しました。ずっと水禽舎の中で生活していたハクチョウなんですが、当時、雄のハクチョウが撃たれて、なぜ、雌だけ高瀬川にいたかということが話題になりまして、雄と雌、これはたぶん番い(つがい)ではなかったか、雌のほうが雄を探して、25羽の群と別の行動でこのあたりを探していたんではないかというような話もあります。一夫一妻制の動物というのは雌雄の結び付きが強いんで、その可能性もかなりあります。

このハクチョウ、雌も雄も剥製として今、一羽は山岳博物館の展示室のほう、一羽は収蔵庫のほうに入っています。展示室にでているのが、ここに舞って来て撃ち落とされた雄のハクチョウです。収蔵庫のほうには雌の剥製が入っております。展示ケースの関係で2羽出すことできないんですけれど。

ちょっとまた話が脱線しまして、山岳博物館、何度かご覧になっていただいて、おわかりのように、物の前に物の名前しか書いてございません。いろんなこまかい説明はしてないんですけれど、2階のガラスケースの中に入っているオオハクチョウは、いま話しした、博物館を創るきっかけになってくれたオオハクチョウです。

海ノ口のコブハクチョウ(立っているのが県市長) このあと、水禽舎が昭和35年以降、水禽舎だけ残しておくわけにいきませんので、皇居のほうからコブハクチョウを譲っていただける、という話がありまして、皇居のほうからコブハクチョウを譲り受けて、コブハクチョウがオオハクチョウの代りとして、駅前で皆さんに愛嬌をふるまうことになるんですが、当時まだハクチョウに対する市民の感情もかなり高いものがありまして、木崎湖の海ノ口をハクチョウの湖にしようと、いうことで、ハクチョウ園というのをつくりまして、コブハクチョウを海ノ口のほうで飼ったり、駅前の水禽舎で飼っていました。この海ノ口では繁殖も成功しております。昭和39年に、ひなが3羽初めてここで生まれたものです。ここにいるのが当時の県(あがた)市長です。

残念ながらこの施設ももうございません。このコブハクチョウも何代か代がかわってきたんですけれど、ちょうど10年位前ですか、やはり車時代になってしまいまして、ここに行くのに歩いたり、田んぼの脇をすりぬけなければ行けない部分がありまして、駐車場もないということで、どなたも見に行く方が、いなくなったんで、それともう一つはなかなか繁殖というのができなくなってきまして、最後の一羽を残して、コブハクチョウの飼育を10年ほど前に中止をしてしまいました。

初代博物館の展示室 昭和26年、山岳博物館、開館したんですが、実は私はさきほど紹介にありましたように、26年の生まれなんです、で、博物館に勤めるというかたちで、生まれたときから、結び付いていたのかなという感じもしないわけでもないんです。

当時大町は町、昭和29年に市町村合併しまして、大町市というかたちになりました。そこで市立大町山岳博物館というかたちで、博物館の活動がますます活発になってくるわけです。

2代目博物館の建設  昭和31年なんですけれど、大糸線が松本糸魚川全線開通をする、その年に因みまして、山岳博物館の位置を移転するという話がでてきました。この当時は農具川の近くの大町の市街地にありました。今の現在の博物館のある駐車場ですね、そこに旧制の大町高校の校舎を移設して、博物館をということで昭和31年に2代目の博物館が生まれております。

前段の話はこの2代目の博物館ができたというところまでで、いったん区切らせてもらいたいと思います。

こちら昭和57年に発行したものなんですが、これはいまの博物館、3代目の博物館ができた時に作った資料でございます。ここに今の博物館の平面図がでています。こちらに初代博物館の平面図、2代目博物館の平面図があります。昔はこんな形で展示をしていたということがわかっていただければと思います。だんだん博物館は大きくなってきたわけです。

それでは、つぎはオオハクチョウからライチョウのほうへの話といきます。

山岳博物館では、ライチョウとの関わりというのは、昭和35年からになります。この年にどんな形でライチョウと関わったかといいますと、日本鳥学会と林野庁が主体となって、北アルプスのライチョウを富士山に移そう、というそんな話がありまして、この鳥学会の要請に答えて、山岳博物館が協力しました。昭和35年の8月21日、場所は白馬岳から富士山にライチョウを移そうと。

富士山への放鳥 大町山岳博物館が、携わった部分については、白馬岳の現地で、ライチョウを捕獲すること、それを下ろして、ヘリポートまで届ける、という部分を担当したわけです。その後富士山に移ったライチョウが、どうなったかということも山岳博物館で調べまして、繁殖も確認されたんですが、5、6年経って調査にいったところ、姿も見えないということで、定着しなかったことがわかりました。定着しなかった理由というのが幾つか、その後になってみればわかったことなんですがあります。

まず一つはライチョウは草食性の動物です。草を食べている動物です。富士山と北アルプス、実はできた年代がかなり違います。したがいまして、そこに生えている植物の植性というのがほとんど違ってもいいというくらい、ライチョウにとっては違った場所です。

それともう一つは富士山は火山でできた山で、どちらかというと、表面がのっぺりした形です。こちらの北アルプスのほうはいろんな複雑な地形が入り交じったところです。繁殖が確認できたというのも、当然富士山にはハイマツはありません。カラマツだけですね。カラマツの幼木の根元に巣を作っていたそうです。そのあと、雛が餌を食べなければなけないお花畑みたいなのもありませんので、かなりそこでライチョウは苦労したんではないかなと、そんなふうに思っております。

翌年の昭和36年、信州大学教育学部のメンバーと山岳博物館のメンバーが合同で調査をしています。信州大学教育学部のメンバーといいましたが、この指導をしていた先生がさきほどお話のあった、オオハクチョウの助けてくれた羽田健三先生が信州大学の教授として、赴任されていた場所です。信州大学教育学部の人達と山岳博物館の職員、それから嘱託員の先生方が、北アルプス動物生態研究グループを作りまして、北アルプスの爺ガ岳に連続150日間、5月10日から7月の7日までずっとライチョウの生活を追って調査をしたそうです。翌年、その翌年も調査を繰り返して行いまして、いままでまったくライチョウというものがどんな鳥かわからなかったものが、この3年間でほとんど究明してしまいました。それはライチョウの生活ということで本にだしているんですけれど、当時のライチョウの研究のすごさというのがわかります。いまほとんどこの研究データをベースに積み重ねられているものでございます。

冬季ライチョウ調査 大町のほうで行われた調査というのは非常に地味なものです。これは夏の調査で、昭和36年のライチョウ調査の模様です。こちらの冬のほうは冬季ライチョウ調査。冬季といいましても、厳冬季は当時装備もあまりよくなかったので、昭和38年3月から4月にかけての調査です。それ以降、4月以降の調査もされていますので、ライチョウの生活というのは、昭和36年から38年で究明されてきました。ただ、こまかい部分については、まだまだわからない部分がたくさんあります。12月から3月ごろまでのライチョウの生活というのはだいぶ謎が残されたままで、富山県のほうでも調査しているんですが、なかなかうまく調査が進まないと、いうかたちのものです。

ライチョウ現地保護飼育移動禽舎の作業(爺ガ岳) 昭和38年まではライチョウを追いかけるという形の調査です。昭和39年、こんな禽舎を爺ケ岳の上まで持っていきまして、現地で天敵からライチョウの雛を守るということ、それから、実際にライチョウがどういうものを食べてどういう生活をしているか、というのを研究するために、こんな禽舎を持上げまして、餌がなくなる毎に、重いこの禽舎を皆で少しずつ位置をかえながら研究をしたというものでございます。

こんな研究が世にだんだん出てきまして、昭和41年、「特別天然記念物ライチョウ」という映画を、今の文部省が音頭取りになって、岩波映画だったと思いますが。約1時間ちょっとの映画が作られました。当時かなりの動員数もあったようです。その映画がアジア映画祭に参加して、グランプリを授賞したそうです。

その後、昭和42年、43年といろいろ試行錯誤をしながら、ライチョウの低地での飼育を、私の前任者であります、海川庄一さんというかたがやられています。当時まだ冷房施設もなく充分に整っていないなかで、いろんなデータを、海川さんは集積されてまして、この本の中にもいくつかでてきていますが、かなり苦労されているようです。

この本でいいますと、57ページ、「ライチョウの飼育」という大きなタイトルの中の「低地飼育そのT、れい明の時」というのがあります。これからずぅっと行きまして、かなりのところまで海川さんがやられているんです。すごいデータを持っているんです。「低地飼育そのU、冷房飼育への移行」の116ページまでですね。「低地飼育そのV、自然繁殖へむけて」の1975年からの飼育が私が携わっている部分であります。そんな形でライチョウ飼育に関しては、長い歴史を大町の山岳博物館は持っています。

日本で大町の山岳博物館以外でライチョウを飼育しているところはあるかと、いうことなんですが、富山県で一時、ライチョウを飼育したことがございます。やはりうまくいかないで、あきらめております。それと上野動物園で、日本産のものではないんですが、外国産のものをすこし飼育したことがありますが、これもちょっと難しいということで、ギブアップで、それ以降やっていないです。

ライチョウの飼育や研究の歴史をいろいろ話ししてもおもしろくないんで、本題のライチョウとはどういう動物で、どんな生活をしているのかなという話をいたします。

ページが戻りまして、6ページなんですが、日本のライチョウはどこにいるかと。この丸をかいてあるのが山の名前なんです。このなかで、今生息しているところと、絶滅したところと、移植したところと。


移植したところは、さきほどの富士山。もう一つ山梨県と長野県の県境にあります金峰山というところに山梨県のほうで移植したそうですが、これもうまくいっていないようです。

それと絶滅した山岳というので、白山。これは古文書の中に出てくるのがライチョウです。実際に写真撮影されたりという形のものではないんで、かなり前に絶滅をしているんじゃないかと思います。それと中央アルプスですね、これは昭和30年代まで、写真にとられていたり、実際に研究をされて発見されているそうです。それ以降、どうも姿が見えなくなってきました。昭和30年代といいますと、たしかあのロープウエーができたのが30年の前半だと思います。ロープウエーができてからどうもいなくなってしまったんではないかと、いわれています。それと八ケ岳のほうなんですが、これはどうも繁殖をしている形跡は私も調査にいったんですが、あまり、ないんですね。たまたま飛んでいって、1羽2羽、そこに舞いおりてしまったという形のものらしいんです。

ライチョウを見たかたは、あんな格好のズングリムックリの鳥がそんなに飛ぶのかというふうに思われるかもしれませんが、飛翔能力はかなりあります。調査に行っても、こっちに羽根がついていればいいなと、思うくらいあっというまにどっかに飛んでいってしまいますし、目も非常に良いです。薄暗くなって、こっちが見えるか見えないかくらいまで、餌を食べてまして、わーと飛びたって行って、自分の寝ぐらに入るわけです。その寝ぐらを捜すのが非常にたいへんで、暗くなって見えないわ、飛んで行ってしまうわ、夕方になってガスの中へ入ってしまうわで、いろんな調査の時にも苦労があるわけです。

そんなことで、八ヶ岳のライチョウは繁殖をしているというよりもたまたま立ち寄ったんではないかなと、考えられています。それほど飛翔能力があるのかということなんですが、調査に行ってそういう形で、よく飛ぶところも見られますし。大町の平な部分ですね、標高750ぐらいまで、下りてきたという記録が2回あります。それはいずれも1月と3月です。この時、私もライチョウがいた松林の中でずっと観察していたんですが、次の朝、4時頃いって見たんですけれど、そこにはいないんで、たぶん別な場所に移動したか、山の上まで戻ってしまったかだと思うんです。それともう一つは、富山県の室堂で昔、足輪を付けたことがありますが、そのライチョウが槍ケ岳の近くで見かけているという情報が入ってきたそうです。ですから、かなり移動はしているようです。

ライチョウの分布なんですが、北アルプスと南アルプスがだいたい主なところです。

何羽くらい日本にいるのかと、いうことで戸籍調査もできませんので、ライチョウの住んでいそうな環境、そこにライチョウの作る縄張りの面積がだいたい直径が200mぐらいの円を描いたくらいですので、それをぽんぽん、ぽんぽん、当てはめていきますと推測ができるんですが、だいたい3000羽だといわれてます。北アルプス全体で2235羽、これが推定であります。その他に乗鞍ですとか、火打ですとか、南アルプスも全部含めると、約3000羽といわれています。

3000羽のライチョウがどのくらいの量かと、ちょっと想像ができないと思いますが。数字からいうとかなり多いと思われますが、2m×2m×2mの箱の中に隙間なくライチョウを詰め込みますと3000羽全部入ってしまうんです。ですから、日本にそれだけしかいないんです。けっして多いとはいえないと私は感じるんですが。2400m以上という限られた範囲のなかで、南アルプス、北アルプスというエリアを考えますと、ライチョウという種が絶滅をしてしまうという数ではないんですけれど、全体としては決して多い数ではないですね。

ライチョウのオス ちょっと話が飛びますが、日本のライチョウはいま話をしたようなような形のもので、学名がラゴプスムツスといいます。学名には意味がありまして、ラゴプスというのは「ウサギの足」という意味です。ムツスというのは「だんまりやさん」という意味なんです。だから、「ウサギの足を持っただんまりやさん」という意味があるんですが。いまの繁殖期、ちょうど3月から7月の上旬まで繁殖期になりますが、雄は縄張りを持ってて、他の雄がくるのをとにかく外へ出そう出そうとしますんで、非常にやかましいです。ですから、この学名を付けた人は、それ以外の時にライチョウを見たんではないかなと私は思ってます。

世界にどんなライチョウがいるかということで、この後のほう、169ページ辺りから、「世界のライチョウ」という形で、主な世界のライチョウを紹介してあります。先生方によって種類を分けるのがまちまちなんですが、亜種まで含めると100亜種以上いるといわれています。

大きく分けて、ライチョウの仲間は世界に三つのパターンがあります。

一つは、日本に住んでいるような羽根の色が変るという特性を持っているもの。これはツンドラ性のライチョウになります。ツンドラ性のライチョウですから、シベリアですとか、アメリカ大陸の北極海に近いほうですね、グリーンランドの海辺の周辺とかにたくさん住んでいます。

もう一つは、森林性のライチョウです。これは北海道にいるエゾライチョウがそうです。森林性のライチョウは羽根の色が変りません。住み家が木の上です。巣は下に作りますが、ほとんどが木の上に生活しています。ツンドラ性のライチョウは完全に陸地といいますか、地面に頼っているライチョウですね。

もう一つが、これは北アメリカにしかいませんが、草原性のライチョウです。ソウゲンライチョウですとか、セイジライチョウですとかがそうです。インディアンの踊りってありますよね、頭や足にいっぱい羽根付けて頭を上げたり下げたりする踊り。あの中の一つにライチョウのディスプレイといって、ライチョウの雄が雌に求愛する時の行為、あれを真似た形のものが、こういうインディアンの踊りになるわけですね。あれはソウゲンライチョウを真似た形の踊りになるわけです。これがアメリカのソウゲンライチョウの仲間。

この3種類がライチョウの主な仲間になります。このうち世界的に数が減ってきてワシントン条約というもので守られているのが、ソウゲンライチョウだけです。あとのライチョウは、そこそこ数がいるということで、国際的には保護されているのはありません。ただ日本のライチョウは文化庁や環境庁の関係で特別天然記念物というかたちで保護されてはおります。

いま話しした3種類の内のツンドラ性のライチョウの一番南にすんでいるのがニホンライチョウなんです。ツンドラ性のライチョウでは日本より南に住んでいるライチョウはいないんです。氷河の依存動物という形で、氷河期が終わってだんだん暖ったかくなってくる。ツンドラ性のライチョウの場合は北へ逃げていくものと上へ逃げていくものに分れてしまったんですね。日本のライチョウは上に逃げていったもので孤立してしまった。これが一つの亜種を形成してきたんですね。

ですから、アリューシャン列島にかけて、ライチョウの種類ってのはすごいんです。島が点々とありますね。その島毎に全部亜種が違うというところもあります。ですから、鳥の仲間ではかなり古い時代からいた鳥で、その地域地域にあった形にだんだん進化してきたという鳥でもあるわけです。

ヨーロッパオオライチョウ 大町山岳博物館では森林性のヨーロッパオオライチョウというのも飼育しています。これはヨーロッパのほうに住んでいるもので、世界で一番大きなライチョウです。大きさは、重さでいったら、5kgぐらいになるものなんです。初め私見た時に、これはすごいなと、ライチョウではなくて、これはワシじゃないかなと思ったくらいです。

一番小さいのが、北海道に住んでいるエゾライチョウです。350gぐらいです。

これから飼育のほうのお話に入るわけです。山岳博物館で飼育を始めたのが昭和38年です。なぜこんなライチョウを飼育しようと、山岳博物館が考えたかといいますと、じつは当時トキは佐渡と新潟県のほうとおりまして、それで数が減ってきたので、トキセンターを創って人工的に増殖をしたりとか、いろんなデータを集めようという形で事業を進めていました。が、なかなか事業がはかどらない。というのは、トラノコでやっているもんですから、なかなか思い切ったことができないわけです。それと日本産のコウノトリもこのときいなくなっていた。昔はかなり飛んでいて、だれでも見かけることができたという鳥であったわけです。そういう鳥の二の舞になる前にライチョウの特性を知っておこうと考えました。特性を知るには昭和36年から始めた現地での調査には限界がある。飼育をして、飼育をした中で生まれてくるものに対して究明をしていこうと。あわよくば、現地で調査したもの、これを飼育のほうへ反映させよう。飼育のほうでわかったことについて、現地でなにか保護できるものがあれば役立てようと、現地と飼育を両輪にしてフィードバックしながら研究が進められればと。いう形でスタートしたそうです。

上野動物園でも諦めたくらいの鳥ですので、一朝一夕にはうまくいかないで、海川さんは、かなり苦労されまして、いろんな形で事業を進めています。 まず、海川さんの場合はどうやって現地から卵をもってくるかと最初に考えて、60頁にありますが、絵に「移送のときの器」と書いてありますが、籾糠の中に下に氷嚢にお湯を入れてまず暖めておくと。そのなかにライチョウの卵を入れて、温度が上がりすぎるかどうかをチェックするために体温計を入れて、その上にパッキンとして木わたを入れて、またお湯を包んで上に入れて洩れないようにするという形で、輸送をされたそうです。私も爺ケ岳、蓮華岳等から環境庁、文化庁の許可を得て卵を採卵してくるときも、この方法を取っておりました。

チャボとライチョウの雛 それと、持ってきたはいいんですが、何度で暖めたらいいのか、ということもまったくわからなかったんですね。一番手っ取り早い方法が、チャボに抱かせると。チャボはたいがい就巣性といいまして、卵を抱く習性が非常に強い鳥です。一度抱き始めると止めませんので、自分の腹下で雛がかえるまで何日でも抱いています。まずこの方法を取って、だいたい何日間で卵がかえるか、ということもこれでわかりました。正確には卵がかえるのは、22日と3分の2日でかえります。だから23日目にかえるというふうに憶えておいていただければいいと思います。

そんな形で仮親に抱せたりですね、人工的に孵卵器を用いて孵化をさせると、いうような形でやったんですが。仮親にまかせた場合に雛が生まれてからちょっと困った問題が起るんです。というのは、ライチョウの雛は、非常に足が太くてかなり急なところでも平気で上って歩きますし、鶏の雛やチャボの雛に比べて、活動範囲がものすごく広いんですね。そうするとチャボの親が参ってしまうんです。チャボは自分の子供たち、鶏やチャボの子供達の育雛の方法しか能力的にインプットされてませんので、チャボや鶏はそれほど激しく動き回りませんし、とんでもなく遠くまでは走っていかないんですが、ライチョウの場合、とにかく遠くまで走っていくわ、ウロチョロはするわで、親のほうが参ってしまったそうですね。そういう問題があったそうです。結局、親のほうが雛を育てるのを放棄してしまったりとか、結構いろいろ問題があったようです。

育雛器のなかの雛 人工育雛(じんこういくすう)の場合もそうです。理論的なことはいろいろわかるそうですが、なかなか実際にどうやったらいいのかというのが、わからない部分があります。67ページに育雛器というのがあるんですが、育雛器というのは雛を育てるための箱ですね。どういう箱になっているかというと二つの部屋があります。こちらは親の腹下の条件を作ってやる。こちらは野性でいえば山の上の条件を作ってやるところ。親の腹下というのは、親の腹下そのものを作ってやろうとすると、37度ぐらいのものを作ってやらなければいけないんですが、雛が大きくなればそれほどいらないんですけど、そういう条件のところと。山と同じところを作ってやると、8度とか、そんな気温なんですね。35、6度と8度の差をたかだか2mあるかなしかでやろうとすることじたいが、まず無理があります。そのためにカーテンを下げるんですけれど、それでも極端な話、冷蔵庫の中でヒーターを使うようなもんなんですね、温度のバランスを取るのが非常に難しいのです。

夜寝る時に自分の好きな温度を設定してやらないと、雛がストレスを起こして、ピーピー一晩中鳴いているんです。自分の好きな温度を設定するには、育雛器そのものを全体を覆ってしまえば非常に温度が安定するんで、管理するものとしてはやりやすいんですね。

ある時、私はそれで失敗しました。毛布をかけてしまったんです。そうすれば非常に暖かくて、安定するものですから。ところが毛布をかけたその7羽だったと思いますけれど、6日目に全部死亡してしまいました。なぜ死亡したのか、家畜保健所に持っていってもよくわからないと、いうことで、やり方をいろいろ後で反省してみたんですが、酸欠をおこさしてしまったんですね。全部包んでしまって、6羽の雛が新陳代謝のために使う酸素の量というのはものすごい量なんですね。かなり大きな箱なんで、一晩くらいいいかなと思ったんですが。松本家畜保健所のほうで話を聞いたところ、酸欠状態に陥っても、そういう状態の酸欠というのはすぐ死ぬわけではないそうです。毛布をぱっととってやって、酸素がぱっと入ると、もうなんとも無かったように走しり回るそうです。よく登山に行って、雪洞の中で少しとじ込められて、酸欠状態になって、ちょっと苦しいかなという経験をされたかたがいるようなんですが、そういう方の話を聞いても、ちょっとピッケルで穴を開けて、そこから入った空気を吸っただけで、かなりもう本当に血液の中に酸素が入ったという感じがするという話を聞いたことがあります。朝来て、ぱっと毛布を上げてあげると元気に走り回るんですね。ですから、酸素不足というのに、まったく私、それまで気がつきませんでした。酸素を計る酸素測定機を買ってきて、いろいろ計ってみたんですが、やはりとじ込めてしまうとかなりの酸欠になるということがわかりまして、それからはそういう方法はとっていないです。こういう話も皆さんだからできるんですが、お金をだしてくださる大町市の理事者の前や環境庁の前ではちょっと話しする気のしない失敗談なんです。

ライチョウの場合の「衣食住」の「衣」の着るほうは、ほとんど自分で持ってますので問題無いんです。で、「食」の前に、「住」のほうを先にやってしまいます。

いまの博物館にはこれだけの施設があります。第1飼育舎、第2飼育舎、第3飼育舎、もう一つ、第4というのもありますが、ちょっと簡易的なもので、連棟と緊急隔離舎といいます。

第1飼育舎のほうに、コンクリート面で打ったところの12.25平方mというのがあります。それと「砂」と書いたところで13.71平方m。これを基準にして話ししたいと思います。

一羽を飼育するのに、二つのスペースが必要になります。コンクリートというふうに書いたところ、立面図で見ていただいてわかるように、ガラスが入って、これが冷房できる部屋になってます。それと「砂」と書いてあるほう、こちらがオープンのものです。外が網になってまして、外気温が自由に入るオープンのほうの部屋になっています。どの飼育舎もおおむねこの二つの方法を取っております。緊急だけは例外です。

このコンクリート面になっている、冷房室と私どもよんでいますが、冷房室のほうは夏はつねに冷房をかける形になっています。飼育を始めた当時は、山の上の気温そのものをここに再現しました。かなり大掛かりの水冷のクーラーを用いていました。山岳博物館の職員が汗だくになって冷房の無い時代に、この飼育舎だけは山の上と同じ気温を再現してやりました。たとえば夏ですと、最低が6度位です。最高でも、けっこう山の上でも暑い時があるようですね、20何度というような。それをタイマーでセットしてその時刻になりましたらその時刻の温度と、曇った日の温度、晴れた日の温度というのを、タイマーを、こういうカムを作りまして、カムが回る毎にそのときの時刻の温度が設定されて冷房される、という大掛かりなもので飼育をしたんですが、そこまで温度管理を厳密にやらなくても、ライチョウは生きる、繁殖できる、ということがわかりまして。いまは25度くらいまでは冷房はかけないで、25度になったら冷房が働く、という形にしてます。人間の冷房温度と同じくらいか、ちょっと暖かいかな。かなり裕福な会社の冷房温度はもっと下がっているかなという感じですが、いまはそれほど温度に対して厳密に考えてはおりません。

ただし、この飼育舎の構造は、いまでもこの二つが必要だということを思っております。その一つの理由が、第1飼育舎がこの「砂」と書いてある、このなかによく巣を作るんです。ここに巣を作った時に、よくこの飼育舎の中で使っている寝ぐらがここなんです。この隅、卵を暖め初めるまでは、ここの角で寝ぐらを取るんですが、卵を暖めると、今度はこの「砂」とかいてあるここの角に移るんですね、こっちのどちらかに。

これはなぜかというと、たぶん長年の遺伝的なものでインプットされていると思うんですが、卵の近くに野性の場合ですと、天敵がこられると困るわけです。ですから、雄もその卵の巣の近くを離れたところに寝ぐらを取る。産卵を始めたら雌はその巣から離れたところで寝ぐらを取る。という形で、なるべく巣から離れたところでいろんな行動をとろうという表れだと思います。

したがいまして、私どもも餌の位置を、冷房室のほうに入れておいたほうが品質が落ちませんのでいいんですが、場合によっては、30度にもなる外に餌を置くというようなことを行います。それで、二つの部屋は必要かなと。

それと連棟飼育舎というのがありますが、小さいほうが冷房室、左側の大きいほうが網の部屋になっているんですが、これだけの面積で繁殖させることができます。ですから、巣の環境さえととのえてやれば、この32.8uくらいの面積で、一つがいのライチョウは飼育できるのではないかなと思っております。

それと一つまた失敗例をあげますと、第3飼育舎というところがあります。たくさんライチョウが増えまして、この第3飼育舎をまた半分に区切って飼育をしたことがあるんです。ここは雄どおし。雌と雄、雌と雄とだんだんペアを組んでいきますと、野性のほうでもそうですし、飼育のほうでもそうですが、どうしても雄のほうが長生きをするのと、身体の構造上強くできているんでしょうかね、どうしても数が増えるんです。それで雄雌を組んでいきますと、どうしてもあぶれてくる雄がでてくるんです。そのかわいそうな雄を2羽ここに入れたところ、雄どおしの縄張り争いの意識とちょっと狭すぎたという中で、ストレスで死亡してしまったことがあります。ですからせいぜい10uぐらいは1羽に対してないとライチョウは生きていけないのかなという感じをもっております。

野性のほうではどうかといいますと、半径が200mの円を描いたくらいが一つの縄張りになっています。その中に雄と雌が仲良く生活をしています。それではどういうところに巣を作るかとなると、なにがその巣を作る要因になっているかというのがまったくわからないです。人間サイドの目で見て、こんなところかなという部分はありますが、ライチョウが巣を作る時なにを基準にしているのかが、まったくわかっていない。

富山県立立山博物館の吉井さん、東京農業大学の北原先生、岐阜大学の西条先生、西条八束さんのほうではなくて植物の先生とで、3年ほど前からライチョウの巣の環境がどうなっているのかという調査をし始めました。今年は雪倉岳でライチョウの巣をめぐって雄と雌がどういう行動をするか、ガレたところとか、お花畑とかハイマツとかいろんな事がありますね、そういう形をどういうふうに利用するのか、どれだけの時間そこで費やすのか、というような形のものを、調べる予定でおります。

次に食べ物の話になります。

給餌 低地で飼育する時に餌をどうするかと、山にあるものとまったく同じものを与えればそれは一番いいわけですが、なかなかそれは難しいです。このライチョウの住んでいるほとんどが国立公園です。とくにこの爺ケ岳の辺りまで、こちら側は特別地域といいまして、何人たりとも物を取ってはいけないと。いまだんだん厳しくなってきて、昔は調査研究という大義名分があればかなりの事ができたんです。さきほどの羽田先生ではないんですが、珍鳥とされている鳥まで打つことができるという時代はもう去りまして、たとえ研究であっても成果の見込のないものにとっては、何人たりとも自然を自由に操ってはいけない。ということで、取ることもなかなか難しいわけで。ではどうやったらいいかということで、配合飼料というニワトリの餌のようなものを設計しなければならなくなったわけです。

これを作る時に何を基準にしていいのか、まったくわかりませんでした。とりあえず、キジの餌、ニワトリの餌を基準にしまして、やったんですけれど、当時もニワトリの餌というものはありましたが、どんな材料を使って抗生物質を何を使って薬をどんなものを使っているかと、それがわからないと、ライチョウにとっていいか悪いかという判断ができませんので、メーカーに聞いたところ、「企業秘密です」ということでまったく教えてもらうことができません。

それならば、山岳博物館で独自に開発しようということで、手あたりしだいの餌を雛に食わせて見せるわけです。これ食わない、これ食べる、嗜好性をまず調べまして、嗜好性の高いものから混ぜて、餌をくれていくと。ただし、嗜好性の事ばかり考えていても、栄養のバランスはまったく取れないわけですね。その栄養のバランスをとるためにこういう表を作りました。


これは一例ですが、玄米、アワ、ヒエ、ソバ、フスマ、きなこ、ナラ、煮干粉、ミルク、このあたりまではわかりますね。ボレーというのは貝殼と考えてください。カルシウムを補給するものです。第二リンカルというのは、第二リン酸カルシウム、これもリンとカルシウムの補給をするものです。この表の読み方はパーセント、これは玄米とかソバとかいうのの割合を示しています。水分蛋白脂肪繊維とありますが、こまかく難しくいいますと、粗蛋白、粗脂肪、粗繊維というふうに考えたらいい。純然たるパーセントではなくてかなり概略のものですので、水分が玄米には13.5パーセント含まれています。粗蛋白は7.4パーセント含まれている、粗脂肪は2.3パーセント含まれています。こういう見方をしてください。

この94−Aという配合飼料は、玄米が13パーセントですので、それをかけてやりますと、この餌の中の玄米の水分は175.5ポイントですよと。アワの水分は198.4ポイントですよと。ということで、全部これを計算式で出すわけです。出したものについてをトータルすると、この餌の水分が10.29ポイント、蛋白質は12.64ポイント、脂肪は4.34ポイント、繊維は8.82ポイントと、いう数字がでてくるわけです。これが計算上の栄養価になります。

これを出すのに非常に苦労するんです。なぜかといいますと、じつはこの中でも繊維がたりないんです。いまわかっているだけでも、10パーセント、ライチョウの場合、越えなければいけないんです。いま8.823ポイントになっていますが、10ポイントぐらいにしなければいけないんですが、これを増やすためには、ナラを増やせばいいわけですね。こんどナラをふやしますと、ナラの蛋白質が少ない割合になっています。これが今度少ないんで、蛋白質12ポイントにしようとすると、これが10ポイント以下になったりしてしまいます。

そういうことでパズルをやっているようなんですね、こっちを上げればこっちが下がる、そのために他のものを上げれば、別のところが狂ってきてしまう。で、私は企業秘密だといった理由がわかったんです。とにかくかなり苦労をして、いろいろな方でつくっている。ということで、私が作ったのが、こういう表を30何種類つくりまして、そのたんびにいい悪いの判断をして、少しずつ餌を替えていきました。

いま現在、94−Aという配合飼料を使っています。繊維が少し足りないといいましたが、これを補うために、野沢菜の、といいますか、青菜の生のもの、リンゴの生のものを入れて繊維不足を補っています。リンゴや野沢菜というのは、じつは90何パーセント水分なんですね。あとはほとんど繊維、他の栄養はほとんどないんです。まあ、リンゴの糖分くらいですね。冬はナナカマドの実を秋の内にかき集めてきまして、全部冷凍にして、このくらいのストッカーのなかに入れておきまして、冬の間じゅう、そのナナカマドの実を10グラムとか1羽に対して8グラムずつ与えていきます。そんな形で繊維を補なっています。

ですから大町のナナカマドは、どの地域にいけば何本くらい植わっているか、私だいたい全部憶えています。いまは運動公園のナナカマドをおもに使っていますが、これを始めた当時、運動公園も無くて、街路樹にだいぶナナカマドがつかわれたんですね。街路樹のものを取ってきますと、排気ガスで真っ黒なんです。全部それを洗いまして、新聞紙の上に広げて、この部屋の倍くらい広げるとなるんです。それをまたビニール袋の中に、8グラムから10グラムずつ、全部こまかく分けて、このくらいのストッカーにいっぱいに入るくらい、毎年集めてました。

最初の頃はナナカマド取ってると「兄ちゃんなにやってるんだろ」と、「そんなものどうするだい」なんていわれたんですけれど、ライチョウにくれるともなかなか言いにくかったので、「果実酒つくるだ」「それにしちゃ、よく取ってるね」といわれたんですけどね。いまはもう皆さん理解していただいて、「ごくろうさま」と言ってくれますけれど。

そんな形でやってまして、だいたい餌に関しては、私はいまのところうまく行っているんじゃないかなと。ただこれは親のライチョウでありまして、雛になりますとまた話がかわってきます。

それともう一つ、いまの時期、外部の方にはまったく話ししてないんですが、いま、山岳博物館のライチョウ、産卵を始めました。概略説明しますと、6月の20日の夏至の頃から、ライチョウは抱きはじめます。非常に日照時間を読み取る能力がありまして、おおよそ6月20日前後から抱き始めて23日目に生まれると。いうかたちです。ですから、20日頃までに6個くらい産みます。6個も毎日ではなくて、2日に一ぺんくらいですから、2週間ぐらい前から産み始める、というふうに考えてくださればけっこうだと思います。ですから、ちょっと今年のやつは早いかなと。

抱卵している雌 じつのところ、今年、二つ、番い(つがい)をつくっていまして、一つは9つも生まれています。もうそろそろ抱いてもいい時期なんです。ですから、かなりずれていますね。もう一つは私今日4時半に出て行って見てみましたら、2つめが生まれていました。これもちょっと早いですね。いままでですと、そろそろ生まれるかなと。だいたい6日から10日の間が産卵の初めかな、6つ生まれるとしたらそれくらいが初めになります。ちょっと今年は早いんです。このへんの陽気もかなり、残雪量も今年は少ないですし、タラノメですとか、山菜の関係もかなり早いですから、少し全部が狂ってきているかなと思います。

ここに異常産卵の事例というものをだしてあるんですけれども、ここでも5月30日、5月15日、5月27日、6月7日なんて出てます。6月7日は普通かもしれませんが、5月の時に生まれています。

このときも今年みたいな異常の年だったかというと、そうじゃないんです。これは私がいけないんです。じつはライチョウを飼育するのに冷房室がありまして、ガラスはありますが、かなり暗いんですね。補助光を付けるのに、蛍光燈を付けてたんです。この年は大町の日の出、日の入りを全部調べまして、それを日の出とともに蛍光燈が入るように、日の入りとともに蛍光燈が切れるように、少しずつセットしていったんです。それをやったところ、こんなに早く生まれてしまったんです。

なぜかといいますと、卵を産むというのは、日照時間がだんだん長くなると卵を産むんですね。6月20日頃ピークで、ピタッとやんで、卵を抱き始めるんです。ところが私は、日の出とともに明るくして、日の入りとともに暗くしてあげたんです。後で考えてみたら、こんなに機械的に日の出日の入りが起るってことはありえないわけです。曇ってればかなり遅くまで暗いですし、雨の降った日は夕方ものすごく早く暗くなるんです。そういうトータル的なものをライチョウは感知しながら産卵するという、そういう機能をもっているんですね。これは機械的に日の出日の入りを設定して上げたんで6月なんてこんなに早く産卵し始めました。

なおかつ、通常は6個から7個ですが、30個近く産んでしまったんです。56日間ですから、約1ヵ月半、7月の中旬位まで、普通なら雛が生まれていてもいい頃まで、産卵をし続けてしまったんです。ライチョウの卵はだいたい35グラムくらいです。親鳥が400〜450グラムくらいですから、卵を全部トータルすると親鳥よりも重い卵を産んでしまった。これも蛍光燈のせいです。私のせいではないといいたいんですが、半分は私のせいかもしれません。

そんなことで今年の異常気象というのが、機械的にやった蛍光燈と同じくらいおかしな事になっているようです。

私の用意してきた題材はこの程度です。このくらいにしておきます。どうもありがとうございました。