トップ >カルチャー目次 > 第5回山小舎カルチャー
1997年5月31日
講演
「慎太郎の思い出」

「慎太郎の思い出」

曽根原 文平


文平です。
いまご紹介があったように、いわな釣りの話なら約10年やっておりまして、その入山 からずっと年を追って話していけば簡単に出来るんですが、百瀬慎太郎さんの話をいま、 きくよさんが詳しい話をなさった後で、また百瀬慎太郎の話をって、こっちも話が長い話 があまりないですが、ただ、私の一番上の兄が慎太郎さんより一つ上で、2番目の兄が慎 太郎さんから2つ下になります。同じ八日町で生まれて幼なじみで、その弟で私も慎太郎 さんの事はよく知っておりました。

しかし、年は慎太郎さんとは24、3、違います。だから、まあ、おじさんていうこと ですが、兄のほうは24と21違うけれど、これは、おじさんじゃなくて、兄であります。

よく、子供のじぶんから、あちこち連れて歩いてもらいまして、まあ、慎太郎さんの話 っていえば、あるとき、これは大正年間ですが、私の小学校時代に山岳博物館の裏山に、 いま山中村って公園になっているところがあるんですが、そこに昔っから古い池がござい まして、それは屋号が「かくさん」て、八日町にありましたね。家(うち)がしんぞうさ んが生まれた家ですが。「かくさん」の池、「かくさん」の池と我々は呼んでおったんで すが。兄が「キャンプに行くで、おまえも行かんか」と。「どこへ行くか」って聞いたら、 「かくさん」の池へ行くんだと。キャンプなんてのは聞いたことがないじぶんで。小学校 3、4年のじぶんではなかったかと思うんですが。「やまちょう」の隣の「かくひら」と いう、味噌、醤油の問屋がありまして。その息子さんで、たくじさんという人が、この人 は私より6つか7つ年上ですが、同じ、私の兄たちとあるいは慎太郎さんたちとの遊び仲 間だったんです。で、3人でキャンプに行きました。夕方だいたい出来上がったじぶんに、 そこへ慎太郎さんが、のこのこと一人で上がってきて、それから、宴会になったわけです が、そのときの大人の話ですが。

慎太郎さんは我々が見ても本当のインテリです。優しい人で、男っぷりも良かったし、 話し方も優しい。まあ、我々の兄貴よりはよっぽど親しみある方だったんですが、飲んで る最中に、お互いに何回も話し合ったその話をするんですね。またかっていうような話だ けれど、その連中にいわせりゃあ、それをやることにおいて、宴会も開けるし、きずなも 持てると、いうような話で、こういう話があります。

慎太郎さんがこれはお得意なんですが、「もり」のもくべえさんが、ってこういうんで すが、「もり」っていうのは森林の森じゃなくって、木崎の南側に「もり」って部落があ るんですが、ま、そこにいた、もくべえさんて、鉄砲射ち、猟師なんです。「もり」のも くべえさんがある朝、鉄砲持って、湖畔に出ていったら、半分凍った氷の上に鴨がえらい 並んでおったと。それに向けて鉄砲をどぉーんと一発ぶったら、鴨が13匹ひっくり返っ てた。その外れた玉が向こう岸の山に昼寝しとった兎の後足にあたって、兎がびっくりし て山にかけ上がるんだけれど、後足撃たれとるで、前足で土を掘ったら、自然薯の芋を3 貫目も掘ってしっくりだ、というような話をして、お互いに喜んでおりました。その話、 しょっちゅう、やっておるようです。それが何ていうかね、久しぶりのテクニックだと思 うんですが。

あるときまた別な話で。田舎の宿屋へ若者が行って、泊まったら、そこの夫婦者が歓待 してくれて、夜、どうも隣の部屋で、「母さんやい、おこして入れるか、入れておこす か」と、いっていたっていうんです。若者おどろいて、襖をそぉーと開けて見たら、なに、 こたつに炭を注いでおった、そんな話をしたんです。

それから、またね、ばあさんが「じいさん、もう、風呂に入ったようだで、私が今度風 呂に入りますで」「おう、入ってこいや」といったら、なんか、ドブンてな音がしたので、 じいさん、気になって行ってみたら、「やあ、やあ、おい、息子や、早く来い、ばあさん の頭、だれか持って行ってしまって、ぶんのこだまの毛が残っているよ」息子があわてて 飛んで行って見たら、ばあさん、逆さにおっこっていたって、あわててまあ、拾い上げた、 ていうような、そういう下らん話をしておりましたが。

それが私の慎太郎さんの印象でございます。詩もたくさん作りましたが、そういうこと は私には関係ありませんでした。

ま、それから、幾星霜もたって、私も満州から帰って来て、23年にいわな釣りの好き な友達と、「おい、黒部へ行こうじゃないか」ということで、23年7月に2人で食料を 4日分ばかり持って、黒部へ魚釣りに行ったんですが、そのときに大沢の小屋を通ったら、 ま、ちょっと寄って見たら、慎太郎さんがそこにおりまして、
「お前たちはどこへ行くだ」
「黒部へ魚釣りに行ってくる」
「そうかそりゃまあ、いいわい、行って来いよ」
まあ、そこで別れて、黒部で3日ばかり釣って、生(なま)を持って帰って来て、慎太郎 さんに差上げたんですが、そのときも丁度今のあの博物館のあすこにモデルである、あの 小屋です。入り口の囲炉裏の端(はた)に坐っておりまして、
「今日は、おじさん、いま、帰って来たい」
「おう、行って来たかや」
「これ、少ないが」って、5、6匹、生をだしまして、「食べてくれ」と言ったら喜びま してね。

あの人がいまの、きくよさんの話にありましたが、酒が好きな人で。弟さんが松本の病 院に勤めておった、ま、それは私の想像ですが、アルコールが手に入ったんだと思います が、そのアルコールをお茶で薄めて、コップで出してくれました。
私たちも酒は好きなほうで、山で一滴も飲んでいらんで帰って来たわけだから、そのアル コールの酒のうまかったことは、いまでも思い出すくらい、おいしかったです。
それで「ごちそうになりました」って、大沢の小屋を我々は後にしたんですが。

慎太郎さんは「お前たちはあれか、別山谷までいったかや」。
別山谷というとそれはね、平(だいら)の小屋からそうとう黒部をさがっていかなきゃ、 8キロも下流なんです。ちょっと行かれるところじゃないんですが、ま、慎太郎さんは山 に詳しい人だったから、知っておりましたけれど。
「いやぁ、別山谷までは行って来られなかったな。新越の滝の落ちるのが見えるところま では行ってきました」というような話をして別れたんですが。

私たちも平(だいら)に、あるいは針ノ木峠をこえて行き来したんですが、登山者には 一人も会いませんでした。23年というとまだ登山者がほとんどなかったんですが、それ でも、終戦3年目だから。

慎太郎さんも山小屋というつもりで来ていたんだろうと思いますが、なんとなく寂しい 顔をしておりました。別れるときも、なんか後髪引かれるような感じでしたが。

慎太郎さんはその翌年の3月に亡くなりましたが、亡くなった話を聞いても、大沢の小 屋のあの別れがいまだ目に浮かぶような状況でございます。

はなはだ簡単な話ではございますが、これで慎太郎さんの話を終わらしてもらいます。