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1995年6月10日
講演
「塩の道・千国街道の歴史を探る」
特別寄稿
中世土豪の暮らし

「塩の道・千国街道の歴史を探る」

篠崎 健一郎


今日の実際の見学のイントロみたいなお話を申し上げたいと思います。
荒山さんからたいへんりっぱな学者みたいなご紹介を頂きましたが、そんなたいしたこ とはないんでございます。旧制中学1、2年のころ、友達にそういうことを知っているや つがおりまして、それから遺跡に連れていってもらって病みつきになり、なんとなくこう いうことを今もやっているというわけでございます。近頃は土器や石器、考古学分野だけ ではとても間に合いませんで、いろんな分野にも手を出すようになりました。

みなさんが「塩の道」といわれている、松本から大町を通り、糸魚川に抜けて行く古い 道筋でございますが、「塩の道」と言われるようになりましたのは、この20年ぐらいの 間ではないかと思います。どなたが言い出されたのかは存じませんけれども、なんとなく そういうふうに言うようになりました。けれどももとは、糸魚川街道、千国街道、仁科街 道、そういうようなさまざまな言いかたをしていました。古く中世ころまでは、千国道 (ちくにみち)という呼びかたが普通だったようでございます。この名は松本の付近に行 っても残っておりまして、千国道だとか仁科街道といっている。仁科と言うのは大町付近 のことで、そこへ行く道ということでございます。それから、千国街道の千国というのは、 これから北、佐野坂以北、白馬村、小谷村が千国の庄という庄園で、皇室関係の領地だっ たところから、そこに行く道ということで千国街道、千国道という名前がついたと考えら れます。

雑談ですが、さきほど今年は涼しいなという話が出ました。今年はコブシの花がよく咲 きまして、このあたりの山は、雪が降ったかと思われるくらい咲きました。ところがこの あたりには、コブシの花が咲いた年は冷夏になるという言い伝えがございます。なにかま た冷害にでもなるといやだなと思っています。もうぽかぽかと汗ばむくらいの日が続いて いいわけでございますけど、どうも涼しいような気がします。

さて、道の話でございますが、最初に道というものは人が意識してつけるというよりも、 踏み跡、いまでも山の中に行くと、けもの道だとか、かもしか道とかいうような踏み跡に 行き会うことがございます。迷ったりすることがあるんですが、そのようにして人の歩く 道もできたのでしょう。

この北安曇郡内にも、中世以前、はるか旧石器時代にかけての遺跡と称する、遺跡と称 するのは集落もありキャンプサイトもあり、いろんなものがございますが、そういうもの を合わせて、五百に近い遺跡があります。多くは、人が住んだ跡でございますが、そこか ら水場へ通う道が最初ではなかったかなあと私は思います。それだけではない、山のほう へ行く道、よその集落へ行く道もだんだんとできていったんだろうと思います。

いまから25年ほど前、私どもの住んでおります大町市の常盤の隣に、松川村という村 がございます。そこで、縄文時代前期の約六千年ぐらい昔の集落の跡を、発掘調査したこ とがございます。集落の端っこを流れていた古い川のあとが出てまいりました。1mぐら いの深さのところに、幅2mぐらいの川のあとがあらわれたんです。そこは扇状地の末端 でございますので、きっとその当時は滝のように水が流れ落ちていたと思われる。そうし てその川端に、この机よりも一回り大きなほどの石がありまして、そこの上にその当時の 人の作った石皿がのっておりました。はじめちょっとわからなかったんですが、丸いよう な平べったい石が出てきて、ひっくり返してみると、それが石皿でして、お料理の道具で ございますね。ものをつぶしたり、すったりする作業をする道具、石皿でございます。そ れはべつに珍しくはない品なんです。ところがだんだんと発掘が進みまして、それをいよ いよ取り上げるときがまいりました。

遺物が出てまいりますと、ああ出てきたと、すぐ取り上げて見るんじゃないんです。そ れは、最後まで残しておきます。土器の一片であっても残しておきます。そしてその位置 を図の上に落とすんです。それから取り上げるんです。

いよいよ取り上げてみましたところが、そこの下から丸っこい石鹸みたいな格好をした 石が二つ、きれいに並べてあることがわかった。ちょうどげんこつぐらいな、このくらい の石でございます。安山岩系統の石でございますけれども、二つ並べて、そのうえに石皿 をかぶせてあったんです。

それを見ましたときに、ああ縄文時代というものは、いままで漠然と考えていたような 無知蒙昧野蛮みたいな時代だと思っちゃいけないわな、と思いました。きっとそこで作業 をしてた、お料理の下ごしらえをしてた人は女性だろうと思います。そこから50mばか り離れたところに、家の跡、家があるんです。その用事が済んで家に帰っていったんだろ うと思います。そのときに台所道具をほったらかして、でたらめに放り散らかして帰って いったんじゃなくて、きちんと磨石を並べて、そして石皿をかぶせて、いまのお勝手でも 主婦のかた皆さんおやりになるだろうと思います。そういう風にしてちゃんと帰っている。 これは、一つの生活のルールみたいなものがきちんとあったのだからと思います。縄文時 代というのは、こりゃあ馬鹿にしたもんじゃないなあと思いました。古く原始的ながらも、 ある規則、ルールのある秩序だった社会だったということ、それから縄文時代を見る目と いうものが私は変わりました。

さらに、その遺跡から、約三百点の滑石製品、滑石というのはあの柔らかい石で、ろう 石というやつと似た石でございます、それでもって作ったイヤリング、ネックレス、そう いうものが約三百点出てまいりました。破片もございますし、完型品はまあそのうちの何 十分の一かでございます。多くは、丸、あるいは四角のリングを作って、その一端が切れ ている形ですね、ケツ状耳飾りという難しい言い方をしておりますが、今でいうピアスです。 約六千年ぐらい昔、このあたりではそういうものをたくさん作って身につけることが大流 行をした時代が、約二百年間つづきました。男も女もきっと飾ったんだろうと思います。 おそらく身体を飾るという意味だけではなくて、おまじないみたいな魔除けみたいな意味 もかなり強かったんではないかと思うんです。

実は去年、この北のところに薮沢というところがございます。そこで、オリンピック道 路敷きの事前調査をやったんですが、そこから、縄文のその同じ時代、六千年ぐらい昔の でっかいピアス、直径 7.5cm くらいあるのが三つ出土した。ひとつは欠けておりましたが、 二つは完型です。石材は、正確には蛇紋岩みたいな石というほうがいいと思います。おそ らく日本で発見されたピアスでは最大クラスです。どうやって耳にくっつけたんだろうと、 まあ、そこらが不思議でございますけれどもね。その縄文時代前期の、そのピアスその他 を作った滑石というものは、もと私は白馬村の川原から拾ってきたんだろうと、思ってお りました。

現在白馬村に松川というような川が流れておりまして、そこに行って川原を見ておりま すと滑石の原石が拾えるんです。この石は柔らかいもんでして、普通の石や煉瓦のところ にこすれば字が書ける。柔らかい、硬度1か2かそんなもんじゃないかと思います。しか し豆粒ほどに小さい。そこで、ピアスを作ったような大きな滑石は河原で拾ったんじゃな さそうだと思うようになりました。

白馬岳の雪渓の上に葱平(ねぶかびら)というところがございまして、そこに滑石、ろ う石の露頭(ろとう)があるんです。当時の人たちはまさかそこまでは採りにいったんじ ゃないだろうと思います。きっともっと手近なところに、露頭があるんじゃないかなと、 これから捜すつもりでございます。私が見つけることができるかどうかわかりませんけれ ども、そんなテーマがございます。

ところが、滑石の玉を耳につけた風習、盛んに作った風習というものは、松本平一円に 広がっておりまして、結構遠くから白馬村あたりまで、石を拾いに来た、取りに来たやつ がいっぱいいるんです。縄文時代、その前の旧石器時代もございますけれども、古代の人 たちというものは遠くへ旅行をしております。観光旅行というわけではございませんが、 必要に迫られて旅に出る。その一番の目的は石でありましょう。

石は現在の鉄やアルミニュウムと同じような、刃物にもなり、さまざまな道具になって おります。こういう道具にはこういう石を使えば一番いいんだという、経験的な深い知識 を持っていたことはまちがいない。私の友人で高校の先生で地学を教えている人がいます が、その先生が、縄文時代の人たちの実用的な石の知識は我々なんぞの遠く及ぶところで はないよ、といったのを覚えております。そのとおりだと思います。

事実、遺跡を発掘してみますと、とんでもない遠くの石が来ていることがございます。 一番目立つのは黒曜石ですね、このあたりでは、黒曜石を手に入れるとすると諏訪のほう から運んできたんでしょう。向こうにはそれを採って売ってたやつがいたんじゃないかと いう話もございます。掘った鉱山の跡も見つかっております。ここら辺では白馬岳の滑石、 まあ、これもあちこちで見つかっております。

それから蛇紋岩は、これから北の白馬と小谷村にたくさん出ます。蛇紋岩の固い部分は 磨製の石斧を作るのによい。石斧というのは今でいえば斧であり、刃物でございます。そ れから中には鍬の代わり、土掘り道具でもあったわけでございます。土掘り道具は石が少 し違います。その磨製石斧、刃物にするのに蛇紋岩が多く使われている。

それから、チャートという石がございます。ナイフにするのに具合がよろしい。割って 鋭い割り口をナイフにするんです。白いのや、いろいろな色のチャートがございます。普 通のナイフに使うのには、高瀬川やら梓川にある白っぽいチャート。いい品物は小谷から 出るチャートがいいということになっていたようです。

そういうふうに、あちらこちらから石を求めてくる。そういう旅行が古くから行われて いた。どこを通っていったかはわかりませんけれども、川筋を通っていったのか、その道 筋はわかりませんですね。しかし、こうした古い道が、後に街道のもとになるのではない かと思います。

そのうちのまた著名なのが、翡翠でございます。姫川の下流の糸魚川市にある、小滝川 の上流から翡翠が出て来るんです。その翡翠が長野県のほうに広がって、イヤリングやネ ックレスに使われたのは、縄文時代中期からでございます。先ほど申し上げた滑石製品の 流行が終わってしまったそのあと、しばらくたってから、縄文中期となり、長野県が縄文 中期のひとつの中心地であったわけでございます。そのころになって翡翠が使われるよう になりました。

この私どもの松本平の遺跡で、翡翠の製品が出土する縄文から後の遺跡は少なくはあり ません。

ことにこの木崎湖の荒山さんの村、「みのくち」、いま電車に乗っていきますと車掌 さんが車内放送で、 「うのくち」と、例外なくそう言うようになってしまいましたが、 あれは「みのくち」ですよね。本当は「みのくち」と「う」にアクセントをつけるの が昔からの言い方でございます。

海の口の駅のホームにちょっとした看板ができております。あそこが翡翠の工房があっ たところでございます。もとは、翡翠を糸魚川の付近で、原産地の付近で加工して、長者 原遺跡なんていう大きい遺跡がございますが、あの付近で加工したのを売り出したんじゃ ないか、ほとんど日本中に売り出したんじゃないかと考えられていたんですが、実はこち らのほうの遺跡にも加工の途中のやつがあるんですね。たとえば穴を開けていって、石が 割れたかどうかして止めたというような、加工の途中の翡翠が出てくる。そんなのを買っ てくるはずはないんで、原石を持ってきて、買ってきたか拾ってきたか知りませんけれど も、自分たちが加工した、ということではないかと想像されていたんです。けれども、そ の工房が見つかったのは長野県ではここが最初。長野県ばかりではございません。内陸地 方では、海の口が最初ではないかと思います。

工房が見つかるということは条件がございまして、まず、原石がそこら辺に落ちてなく てはいけません。もとになる石、これはあの山から欠いてきた石ではなくて、川から拾っ てきた石のようでございますね。万葉の歌でも、「ぬな川の 底なる玉 求めて 得し玉 かも 拾いて得し玉かも」、そういう歌がございます。川原で拾ってきたんだろうと思い ます。それから、加工する道具がなくちゃいけない。破片も落ちてなくちゃいけない。い ろんな条件がございます。そういうのが、海ノ口の「一津(いっつ)遺跡」でそろって発 見されました。

しかもおもしろいことには、当時の墓地の中で作業をやっているんですね。あれはどう いうことなのかよくわかりませんがね。縄文時代のお墓があるんです。縄文時代には遺体 をやたらにそこらに捨てたというのではありませんよ。一時期、平安時代になると遺体を 粗末にあつかうことが流行りましたけれど、縄文時代はそんなことはありません。きちっ としたお墓を作って、土葬でございますけれども、石をかぶせて、目印の石を置いてある。 そういう共同墓地が20ばかり出てまいりました。遺体はもうありませんでした。その墓 地の中で加工していたとはどういう意味か、なんとも解せないというわけでございます。

それから縄文時代には、人びとがあちこち移り歩いたらしい。出土した土器を比べてみ ると、遠くのほうから運んできたらしいというやつがあるんです。大町の東の山中に八坂 村というところがございます。そこで出てきた土器、弥生時代の始めの頃の、このあたり で見かけない模様をつけた土器だなあと思って調べて見ましたところ、名古屋の付近の土 器でございました。偶然に同じものができたとは考えられないくらい、そっくり。名古屋 から運んできたんじゃないかと思います。専門の学者から見てもらいました。なんで、名 古屋から八坂の山の中に人が移ってきたんだろう、土器を運んできたんだろうということ はわかりませんけれど、これから解決しなければならない問題です。

それと、塩の問題がございます。山中、こういう内陸部には塩がありませんから、古代 の人たちが塩分をどうやってとったんだろう、という問題がございます。いろいろ答えが 出てきましたが、ひとつは、縄文時代には、けものの肉や魚や鳥の肉ばかりを食べていた ので、塩はとらなんでもよかった、そういうものの血液や内臓の中から有機塩を取ること ができるので、われわれがいま知っているソルトというもの、しょっぱい塩は特にとらな くてもすんだんじゃないか、という説がございます。ところが最近は、それはちょっとあ やしいようだとわかった。というのは、縄文時代には主食はでんぷんで、ドングリ、トチ が主食ということが近年わかってきたからです。

この南の明科町というところに縄文時代の共同墓地が見つかりまして、地下8mほどの ところから三百人分ぐらいの遺体が出てきました。北村遺跡ともうします。指の先まで骨 が残っております。これは残る条件があったんです。そういうものが出てくると考古学の 手には負えないわけで、形質人類学という分野のお医者さんのほうに頼まなくてはいけな い。独協大学の医学部で調べてもらいました。生前に食ったものがわかるそうです。その 骨を調べた学者のかたは、そこの人たちは80%は植物性のものを食べていた、それから 腹一杯しっかり食べていた、こういうことを言ってくれました。その腹いっぱい食べた植 物性のものは、まあ山菜も食べたでありましょう。いろいろ食べたと思いますが、そうい う知識がうんとあったはずです。主食となるでんぷんは、ドングリ、トチの仲間です。
ドングリ、トチはそのままでは食べられません。特にトチのほうが、すごいあくがありま して、なかなか抜けないんです。けれど、そのあくを抜く技術が縄文時代になって開発さ れて、もう一般化していたんです。結局、木の灰と一緒に煮るのと、それを水でさらすと いうことのくり返しです。そうすると、真っ白なでんぷんだけの、栄養のなんにもない粉 ができます。それをすいとんのようにして食べることもできるし、蒸し焼きにもできる、 というようなことで、食べることができるんですね。ただ、いま申し上げたとおり、栄養 もなんにもない、ほかのものでビタミンやらなにやらは補わなくてはいけない、というこ とになるわけでございます。だから塩分は特にとらなんでもいいなんてことは、これはち ょっと眉つばだなあと思うようになりました。やっぱりよそから持ってきて、塩という形 でとっていたんじゃないかというように考えるようになりました。

もうひとつの説はこのようです。塩という地名のあるところがたくさんあります。大塩 とか、塩の貝とか、塩坂だとか、いっぱいありますが、その塩という地名が、きっとそこ に大昔から塩分を含んだ湧水があったところに違いないという説がございます。それをく んできて飲めば塩はとれる。たしかに、その塩分を含んだ湧水というものは、ないことは ないんです。このへんには有りませんけれども。これはそのかたが、きっと「塩」という 地名の意味を間違えておとりになっているんではないかと思います。塩という地名の語源 は重粘土地帯についた地名です。白いものが土の中から吹き出してまいります、それから、 重粘土地帯のことを塩という地名がついた、と考えられています。うんと汗かくとこうい うところに塩が吹き出すでしょう、あれと同じでございます。この説もどうもいけない。

やはり、縄文時代といえども塩分をとるには、海水からとった塩を何らかの形で運んで きているんだろうと思います。そのほうがぼくは自然だと思います。いまのような塩の形 だったかどうかわかりません。海草にくっついたようなのを持ってきたのかもしれません。 そこらはわかりません。ただ、いまのような塩をつくったのは、最初は土器製塩でござい ましょう。土器で海水を煮て作るんです。これはどうも縄文時代のちょっと後にならない とまだ発見されない、製塩土器というのは。

さて、中世になりますと、ここらへんには仁科という豪族がはびこりまして、現在の南 安曇郡、北安曇郡の大部分を領しておりました。一時は糸魚川付近まで勢力を伸ばしてい たことがございます。仁科氏は京都のほうとたいへん関係が深うございまして、行ったり 来たりしている、京都には山科のあたりに屋敷も持っていたようでございます。しょっち ゅう行くんです。ところが南のほうから行けば近いような気がするんですね、松本を通っ て、木曽路かなんか通って、美濃に出ていけば近いと。ところが北の道を通るんです。わ ざわざ、このけわしい塩の道のあたりを通って、糸魚川へ出まして、北陸道を京都のほう へ行くんです。南の方にはどうも敵対勢力がいたようです。

仁科氏というのは中世、宮方(みやがた)なんです。宮廷、皇室方について武家方の足 利や北条と戦った。南には武家方がたくさんいたらしくて、なかなか通れなかった。そう いうことで北の道を通っていった。それともうひとつは、仁科氏は塩をおさえておきたか ったんでしょう。越後の塩。南に行けないというと北から持ってくるしかない、塩をおさ えなくてはならなかったんだろうと思います。

ことに、仁科氏の最後の人でありました仁科盛信という人物がございますが、これは武 田信玄の五男がここに来たんですが、これはことにそれが熱心で、糸魚川付近に山城(や まじろ)を築いたりなんかしておりました。例の上杉謙信が敵方の武田信玄のところに塩 を送ったというお話がありますが、まあ、けっこうなお話でありますけれども、どうもこ れは真実ではないようです。

仁科の荘は皇室関係の荘園です。これは仁科氏、あるいは仁科氏の関係者が中世、開拓 をいたしまして、その開拓した土地を自分で持っておりますと、どうも税金がかかったり してやりきれないので、その土地を中央の有力者のところへ献上したという形を取るわけ です。自分は地元におりまして、そこを管理をまかされたという形で実権を持っている。

仁科の荘は、室町院という平安時代の鳥羽天皇のお姫さまのところの領地だったそうで ございます。それから北の千国の荘のほうは、六条院領、これもちがう天皇のお姫さま、 皇女様の領地になっていたそうです。皇女様が亡くなってしまってからは、その菩提のた めに建てた京都の万寿寺というお寺の領地に寄進をされまして、万寿寺領というようにな って伝わりました。それで、仁科の荘のほうは、仁科の本家が管理をしている。こちらの ほうは、沢渡氏という豪族、自分の一族に管理をまかせました。

今日これから午後、皆さんからおいでいただく、大宮城跡という山城、これは、沢渡氏 が持っていた山城です。そのふもとに屋敷の跡もございますが、屋敷の跡はもうすっかり 宅地になったり、田んぼになったり、跡形もございません。山城のほうはさいわいちっと も傷つけられなくて残っておりまして、小さいけれども典型的な中世の山城の姿を見るこ とができます。

沢渡氏は、本家の仁科氏が滅びたあと、松本の小笠原の家来になりました。小笠原とい うのは、松本の領主でございますけれども、仁科氏とはごく近い親戚でございます。三百 五十石の侍になりまして、そして、小笠原が転封をされました九州の小倉の土地で、明治 維新を迎えております。ところで、千国の庄、南のほうの鎮守の神様として、その山城の ふもとのところに、神明宮と諏訪神社をまつってあります。二棟ございますけれども、鎌 倉時代からまつってあるということがわかっています。そこへ、沢渡氏のこちらにおった 最後の領主でありました、沢渡九八郎盛忠という人が、社殿を建てかえましてね、天正 16年、戦国時代の終わり、豊臣秀吉なんかが景気の良かった頃で、社殿を寄進をいたし まして、向こうへ去って行くわけですが、その社殿が現在そのまんま残っております。重 要文化財に指定されました。今日はその社殿を見てもらいます。これが重要文化財かと思 われるような、簡素きわまる小さなものでございますけれども、その当時の神社建築の様 式をよく残している。これについての棟札も残っております。

皆さんがたのほうのお宮さんはどうか知りませんけれども、これから北のお宮というの は、ことごとく覆屋の中におさめられております。覆屋というのは、社殿があるとそのう えにさらに屋根を重ねる。雪の多いところでございますから、神社建築なんてのはきゃし ゃっぽいもんでね、雪がうんと降ったりするとすぐに痛んでしまう。それを防ぐために、 大町の、たいら地区から北のほうの社殿はほとんど覆屋を作っております。だから、四百 年前の社殿でも、このあいだ作った社殿かとかと思うように新しい。保存がよろしゅうご ざいます。国宝だの重要文化財だのといいますと、美しく飾りたてた絢爛豪華なものや、 大きなものを想像なさるかもしれませんが、びっくりするようなシンプルなものでござい ます。けれども、神社建築の祖というものはそういうものです。シンプルなものが本当で す。

さて、江戸時代になりますと、古代からのこの道は、千国街道という名前になりました。 けれども、この街道はけっして大名行列が通ったような華やかな日のあたるメジャーな街 道ではございません。どちらかというと脇街道、脇往還という言い方がよろしいのではな いかと思います。マイナーな陰に隠れた道ということでございます。通った人も少なけれ ば通った荷物もそれほどではない、塩の道という名前が付いておりますけれども、通った 塩も、よそに比べるとそれほどの量ではありませんでした。それでも地方の人達にとって は生命線でもあったわけでございます。

それから、道、街道というと、一本のようにお考えになりますが、東海道なんかはいく つあるのか知りませんけれども、この千国街道は一本ではございません。糸魚川から大町 へ行くのに道が何本も来ている。姫川の西を通る道もあり、東を通るのも両方ある。旅人 は好きなほうを通ってよかったわけでございますね。どこを通らなければならないなんて ことはないけれど、番所は通らなくてはいけない。一番メインになる道には、関所や番所 がおかれていた。糸魚川には、山口の関所がございました。それから、西側、左岸のほう には、虫川の関所。こちらにくると、千国の番所というのがもうけてございました。そこ で、通る人たちを監視をしたり、通る荷物に、関銭といいまして、通行料を取っていた。 千国の関所には、何にはどれくらいな通行料をとるんだという記録が残っています。そん なわけで、昔の旅はなかなかたいへんだったなあと思います。

今日は、古い千国街道のこの先の青木湖の北西の部分で、佐野坂を越えてみたい。道は 少し広くなっておりまして、最近広げたように見えますけれども、実はあれがもとの広さ だったと僕は思います。通らなくなって狭くなってきたんだろうと思います。というのは、 昔は馬や牛が通りますので、そんな狭い道じゃ、人がようやく歩けるような道じゃ、馬や 牛が通れません。馬や牛が通れるということは、まっすぐ向こう向いて歩くだけじゃない んです。時折、回れ右をすることだってあるんです。ですから少なくとも、一間幅なくち ゃいけない。昔の街道というのはそういうものでございます。案外広いちゃんとした道が ついていた。傷むとせっせと修理しておりますからね。橋が落ちればすぐ橋をかけました。 いま山道の橋が落ちたってなかなかかけません。そして佐野坂の峠道にそって、旅の安全 を祈る三十三番の観音が建てられています。

そんなわけでございまして、今日は夕方までお相手をしていただきたい。それではイン トロのほうはここで時間でございます。あとはまた歩きながらお話ししたいと思います。