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1995年6月10日
特別寄稿
「中世土豪の暮らし」

特別寄稿

「中世土豪の暮らし」

篠崎 健一郎


例えば“日本の城”とか“日本の城めぐり”といった類の本がよく出版されている。た いていは、さまざまな角度から写したダイナミックな美しい写真がいっぱい掲載された豪 華本で、大学教授やら専門学者の著作あるいは監修とあり、内容も良く、とにかく楽しめ る本が多いが、値段の方もそれ相当ということになる。

そうした本は、ふつう姫路城とか近い所では松本城のような、近世初頭あたりに建てら れた、堂々たる景観の城の解説に大半のぺ一ジをあてており、それ以前の城についてはま ったくふれていないか、紹介してはあってもほんの付けたり程度、というものが多くて、 中世の田舎の土豪の暮らし向きなどを気にして調べている私どもにとっては、いささか物 足りないことが少なくない。中世以前の山城などは、どうも地味すぎるので、本に作って も売れるような本にはなり難いのであろう。

昔は、山城の研究などは、田舎のいわゆる郷土史家たちでもなければしなかったものだ が、近年はようやく学問的な脚光をあびるようになって、学会もでき、方法論もどうやら 成立し、若い研究者も育っている。殊には考古学の方法が重要視されるようになったのは、 快心のことである。

享保九年(1724)に成立した、松本藩要覧ともいうべき“信府統記”は、32巻の うち第18巻を“松本領古城記”として、松本落成立以前の域内にいた土豪たちの居館跡 や、山城跡について、その規模や城主たちを紹介していて、今でもなかなか参考になる。 藩の編纂者らは、おそらく領内の村々に下達し、定められた様式によって村の実景を書い て提出させたものを、資料としたにちがいない。それには現在の大町市と北安曇郡域にあ る、居館跡、山城跡が42ヶ所あげてある。ちなみに現在では121ヶ所である。

さて信府統記第18巻の冒頭に、つぎのような前書がある。
「凡当国ハ中古郷村ヲ分領 シテ居住セシ地頭多ク、郷党諍ヒ、地取合止時ナカリシカドモ、元ヨリ小身ノ士ハ一己ノ 勢ヒヲ以テ運ヲ開クコトアタハサル故ニ、当国ノ大身ノ将又ハ隣国ノ威勢強キ大将へ随ヒ 属セリ」

戦国時代頃の信濃の状勢を、簡潔にえがいて余すところがない。この具体的なありさま を、縁あって岳友会の皆さん方とともに遊んだ、白馬村の大宮山城跡や沢渡氏、そして仁 科氏などについて記してみたい。

仁科氏という豪族は、平安時代後期から戦国時代末の天正十年(1582)に減亡する まで、およそ500年間ほど信濃の北西域を支配し続けた、信濃では名族といわれた一族 であるが、その長い領国支配の間に、つぎつぎと分家を出して昔からの郷村の支配者に任 じ、また新たな土地の開発地主としていった。その結果領国内の多くの村の地頭が、仁科 氏の血筋を引く者となり、古風な姿ながら強固な支配体制を誇っていたことは、近現代の 同族経営の会社にも似ていなくもない。

沢渡氏が仁科氏のどのあたりで分岐したのかについては、よくわかっていない。応永七 年(1400)に起こった大塔合戦という争乱の記録の中に、大将仁科盛房に従って参戦 した、沢戸五郎なる人物が沢渡氏の初見であるが、それ以前のことはわからないのである。 近世後期になって、九州小倉の小笠原家に仕えていた沢渡氏が、主家に提出した系図には 沢戸五郎の名はなく、もう少し後のことから書き始められている。しかし三日市場神明宮 所蔵の県宝指定御正躰二面の背面には、弘安九年(1286)の銘があり、奉納者は仁科 氏関係の女性とみられるから、鎌倉時代中期にはすでに沢渡氏が、ここに居住していた可 能性がないこともないのである。

沢渡氏は湖岸段丘の一角に居館を構え、すぐ東の独立丘を山城としていたのであるが、 この大宮山城を主城として、周辺の丘上や尾根先などに、いくつかの支城や物見を設けて あった。それらの支城を守っていたのが、沢渡氏の寄騎である。いわゆる“沢渡十人衆” で、沢渡氏支配城の集落ごとに一人、二人と住んで、ふだんは農業をやっているが、いざ 合戦というときには武装をし、馬に乗って主家に集まり、さらに大町にいる大名仁科氏の もとに集合し、“仁科軍団”を形成するわけである。この十人衆までがおそらく騎馬武者 で、その下には歩兵や人夫などがついているので、武者一騎といえば、人の頭数からすれ ば5人か6人、それに替え馬や食糧などを積む馬など複数の馬がいることになる。

沢渡系図によれば寄騎十人衆として、上田、小山田、高瀬、宮沢、吉野、篠崎、宮沢、 宮本、大田、長沢の姓をあげているが、十人衆の存在は確実であるものの、その姓の当否 はわからない。中には近世になって他の大名に仕官した者もあるようだし、沢渡氏が去っ た後も郷土に残った者もある。松本藩時代、庄屋や組頭などの村役人に任ぜられるのは、 この層の人たちが多い。

ところで沢渡氏がここにいた時代は戦国時代末までのことであり、兵農が分離し、専門 の武士たちが城下町に住んで消費者階級となった江戸時代ではない。低辺にいた人たちも、 十人衆も、土豪沢渡氏まで、みな本質的には農民であった。もちろん沢渡氏は大地主であ り、領内の農民たちの生活を守る代償のように、なにがしかの年貢を取ってはいたであろ うが、かれら自身も自作農として、家族や家の奴婢らを指揮しながら汗を流す生活であっ たと思われる。

いまでもたいていの村落の小地名に、かれら領主や被官たちの屋敷や山城の存在を暗示 するものが少なくないが、その中に前田とか前畑というのがある。これが土豪たち自身の 耕作する田畑であったところである。手前田、手前畑の略であろう。

近年、長野県では圃場整備事業がさかんで、狭くて不規則な形の水田を作り直して、あ る程度の面積をもつ長方形の水田にすることが大々的に行われたが、その区域内に遺跡が あれば事前に発掘調査が実施され、記録保存が義務づけられた。水田地帯にある遺跡は、 縄文時代の遺跡は少なく、弥生時代以降、中世の遺跡が多い。その中に土豪たちの居館跡 があり、その実体がかなりはっきりするようになった。白馬村では発掘例がないが、例え ば沢渡氏やその被官たちの家も、似たようなものだったであろう。

居館跡の規模には大小があり、地形にも左右されようが、そのプランはたいてい正方形 を志向している。濠には水濠と空濠があったようだが、内濠と外濠の二重にめぐらしたも の、一筋だけのもの、濠がなく塀だけをめぐらしたものなどがあったが、おそらくは身分 階層を物語るものであろう。沢渡氏のように仁科氏直属のクラスは二重濠、十人衆クラス は一重の濠か、濠のない居館と、およそは言えるように思われる。

その内の中央よりやや奥まったあたりに、かなり大型の母屋や付属の建物があり、この 地方では萱葺きがほとんどである。母屋は主人公家族の住居であるとともに、領地支配の ための事務所でもあったであろう。門はおそらく側面に設けられ、玄関に行くまでには濠 に架けられた橋を渡ったり、曲折した道をたどる筈である。そして居館内には被官や下人 たちの住居、厩、倉などもある。近年の知見では、戦国時代末でも、このあたり一般庶民 の家は、なんと縄文時代以来の竪穴掘立柱の家であるのに驚く。沢渡の殿さんの居館もす べての部屋に床が貼られていたとは考え難い。ちなみにこの地方では誰でも床の上に寝起 きするようになったのは、江戸時代末である。

つぎに沢渡氏の大宮山城跡のような、山城について考えてみたい。これも近年になって わかってきたことだが、山中の村ほど、見張り所程度の小さな山城の跡が数多いことであ る。戦国時代という世の中と、山中のあちこちに散在する小集落を考え合わせてみると、 それはあたりまえのことで、小集落にいる小土豪たちも、生き残っていくためにはぜひ情 報が欲しい。そして近くの峯に物見を置いて、時としてどこからか発信される峰火をキャ ッチしようとしたわけである。そうした山城の地名に、しばしば“ねずみ(寝ず見)”が ある。中には自分たちの先祖は物見の役として山城の根に住まわされた、という伝承を持 つ家のことを聞いたこともある。

大宮山城跡はそれよりも大規模で、山上にさまざまな防備のあとを残しており、もし敵 が攻めてきたら一合戦にも及ぼうか、というほどのものである。山頂を削平して深い空濠 でへだてられた二つの主郭をつくり、そのまわりには二重の帯郭をめぐらし八条の竪濠を 放射状につくりつけている。しかし沢渡氏の動員力は、いいところ150名程度であろう から、仮に武田の大軍の攻撃を受けたならば、さして天嶮ともいえないこの城に立て籠っ てみたところで、ひとたまりもなかったにちがいない。さいわい宗家の仁科氏は、武田信 玄が信濃へ侵攻するや、その勢いを見て取り、さっさと降参してしまったので、大宮山城 での攻防戦は行われなかったし、沢渡氏も滅亡をまぬがれ、仁科家、武田家が亡びた後、 沢渡九八郎盛忠は小笠原氏に随身して350石の武士となり、九州小倉において明治維新 を迎えている。