講師特別寄稿
「世界一若い露出花崗岩と爺ヶ岳転倒カルデラの発見への道のり」
原山 智
世界一若い露出花崗岩「滝谷花崗閃緑岩」の発見のいきさつは、大町山岳博物館の発行している「山と博物館」37巻11号(1992)に書いたが、この冊子の入手は容易でないので重複を恐れず、また爺ヶ岳転倒カルデラ発見の経緯についても併せてここで述べてみたい。
工業技術院地質調査所に在籍した1990年、私が単独で執筆した「上高地」地質図幅が刊行された。ところで、この地質図では穂高安山岩や滝谷花崗閃緑岩を古第三紀(約4600万年前)の火成岩として区分している。この時代区分は後に大幅な修正を余儀なくされることとなり、私にとっては大変苦い思い出である一方、大きな発見に至るためにどうしても通過せねばならなかったプロセスとして懐かしく思い出される。
「上高地」地質図幅刊行までに行われた槍穂高連峰の地質踏査は、足かけ15年。野外調査に基づいた各地質体の生成過程や新旧関係はほぼ完全に明らかになっていた。たとえば槍穂高連峰の火山岩は溶結凝灰岩が主体を占め、巨大なカルデラ火山として誕生したことや、その火山体の直下の地下にあったマグマが滝谷花崗閃緑岩として固結したこと、笠ヶ岳地域の火山岩よりも新しい時代に活動していたことなどは、この時すでに明らかになっていたのである。
しかし、それぞれ地質体の形成年代(絶対年代)を明らかにするためには、放射壊変現象に基づいた年代測定を行う必要があった。ある種の元素(親核種)で生ずる放射壊変は、一定の速度で進行することがわかっているので、鉱物や岩石の生成以降に親核種から壊変により生じた元素(娘元素)の量を計ることで、経過時間を求めることができるのである。どんな元素が時代決定に使われるかは、対象とする鉱物や岩石に一定量以上含有されているかどうか、壊変速度(壊変常数)の大小が予想される経過時間に対し適当であるかどうかで決まってくる。たとえば、歴史時代の遺物の年代測定によく使われるのは炭素年代法(14C法)であり、これは7?8万年前までの木片や骨などの遺物に適用される。一方、岩石や鉱物のうち数万年前より古い時代に生成したものにはK-Ar法が、数百万年より古いものにはRb-Sr法やU-Pb法が使われることが多い。これらの方法はいずれも最初の元素が親核種で、ハイフンでつないだ後の元素が娘元素である。
実は地質図幅刊行より6年前にさかのぼる1984年12月の時点で、滝谷花崗閃緑岩に含まれる黒雲母という鉱物について、3.1 Ma(Ma=百万年前)というRb-Sr法による年代が、また1987年3月の時点で、1.8±1.1 MaというK-Ar法による年代値が得られていたのである。これらの2つの年代値は、いずれも古第三紀の火成岩ではないという結果を示していたが、私はこの測定値を信用していなかった。なぜなら、火成岩の年代値として信頼性が高いといわれていたRb-Sr全岩アイソクロン法による年代値が、46.4±1.1 Maを示し、3.1や1.8 Maという数値は、若返り現象と呼ばれる、放射壊変によって生じた娘元素の逸散が原因の、意味のない年代とみなしていたからである。背景には、花崗岩マグマは冷却固結までに百万年近い時間を要し、さらに浸食削剥により地表に露出するまで数百万年以上の時間を要するという常識があった。たしかに、日本では当時最も若い花崗岩でも4.4 Maであって、ほとんどの花崗岩体は6000万から1億年を示していたのである。
「上高地」地質図幅執筆当時、この測定手法による年代値の食い違いが、たいそう気になってはいたが、結局のところRb-Sr全岩アイソクロン法による年代値(46 Ma)を採用し、穂高安山岩や滝谷花崗閃緑岩を古第三紀火成岩として区分したというのが真相である.「上高地」地質図幅を刊行後、すぐに北隣の「槍ヶ岳」地質図幅(1991年刊行)の執筆に取りかかることとなったが、この滝谷花崗閃緑岩と槍穂高火山(穂高安山岩)の年代問題は、進展を見ないまま、私の中で次第に大きなわだかまりとして成長し、重くのしかかるようになっていったのであった。
ようやく「槍ヶ岳」地質図幅の原稿を脱稿した1991年1月、2年連続したとりまとめや執筆作業から開放されて、私は槍穂高火山の溶結凝灰岩の鉱物含有量や化学組成データを整理していた。その溶結凝灰岩は固く緻密で暗緑灰色を示し、多数の長石や輝石斑晶を含むことで特徴づけられる。それを作った大規模な火砕流を思い浮かべながら、グラフにプロットしていたその時、決定的な瞬間が訪れたのである。
1985年に刊行された「高山」地質図幅で、私は丹生川火砕流堆積物という240万年前に活動したと考えられた火山岩の調査研究を担当していた。私にとっては、初めての若い火山岩の研究であり、その新鮮な産状や岩石は、大規模火砕流の流走メカニズムや噴火様式について学ぶ対象として実に好適であった。
この火砕流堆積物は乗鞍岳や焼岳の西方山麓に広く分布しており、基底面の高度が西方へ高度を下げることや、堆積物の厚さが東から西へ減じることから、噴出地点は東側の地形的高所、即ち乗鞍岳の西側と推定されたのである。この堆積物の多くは溶結凝灰岩として固結しており、灰色多孔質で軟らかく加工が容易なことから、高山一帯では石材として広く用いられている。
この凝灰岩、色調こそ淡色系だが、長石や輝石を多量に含み、構成鉱物の特徴や化学組成は槍穂高火山の溶結凝灰岩にそっくりであることが閃いたのである。もしや、同じものでは?槍穂高火山のカルデラが、丹生川火砕流の噴出地点ではないのか?次々と連鎖していく思考の中で、全てのデータが穂高?丹生川が同一人物であることを示し、瞬く間に強固な確信へと変わっていった。
この間、どのくらい時間が経過したのかわからない。深夜であったが、地平線まで視界が開け、今までのわだかまりが一気に氷解していく実に爽快な、興奮が私を包んでいた。槍穂高=丹生川、そして槍穂高火山の直下で固結した滝谷花崗閃緑岩は、間違いなく240万年前より後で、うんと若い、おそらく世界で一番若い花崗岩である。こんなに若い花崗岩が地表に出ているのだから、北アルプスは滝谷以降に急速隆起したのだろう。現在私が主張している学説の大半がこの瞬間のブレークスルーから生まれたのである。
その後の焦点は、いかに説得力ある年代データを量産するかに移った。一気呵成で年代データを出していく途上、3.1 MaのRb-S r黒雲母年代には計算時の入力ミスがあったこと、わずか一つの数字が本来1.12 MaとなりK-Ar年代値に合致すべきデータを狂わせてしまう恐ろしさを知ることになる。また、古第三紀との過ちをもたらしたRb-Sr全岩アイソクロン年代は、この手法の大前提であるマグマ固結時の同位体元素の均質性が成立していないことに起因することが判明した。この問題は、何の疑問も抱かれなかった前提条件の検証が必要であるという重大な問題提起につながっていくのである。
その後、年代データを大幅に補強し、ほぼ1年後にアメリカ地質学会に投稿した論文は、滝谷花崗閃緑岩を地表に露出した花崗岩としては世界一若い岩体として喧伝する役割を果たした。様々な矛盾をかかえて悩みつづけることが、新たな発見の必須条件であり、あきらめず続けることが飛躍のチャンスを作り出すことを、この体験を通して学んだのである。
爺ヶ岳の転倒カルデラ発見の体験も、実に爽快であった。発見のプロセスは滝谷花崗閃緑岩の場合に実に良く類似している。ことの始まりは、1999年に卒論生の足立君と始めた白沢天狗岳付近の溶結凝灰岩の調査からであった。この溶結凝灰岩は均質で、南北6km、東西3.5kmの東に凸の半月型の分布域を示している。溶結凝灰岩からなる岩体の内部を調べていくと、軽石の扁平化した構造が70-80°の急傾斜を示し、東の凸の部分の境界部だけ西に20°前後の緩傾斜構造を示すことがわかった。1年目は巨大な朝顔型の火口を充填した火砕流堆積物だという推定をした。しかし何でこのような急傾斜な扁平化構造ができるのか説明はできずに、わだかまりが残っていた。心に大きなつかえがあるかのような感触が続いていたのである。
2年目は、同じフィールドを引き継いだ卒論生の深山君と調査研究を行った。彼は、実に体力と探求力のある学生で、一抱えもある岩石を厳しい山岳地域から多数採取してきては、扁平化の構造・帯磁率異方性と残留磁化を測定しまくった。2001年1月末の締切を半月後に控えた頃、彼が持ってきた残留磁化の測定結果は全て逆転磁化で南東を示し、20°前後の小さな伏角を示していた(現在の地球磁場は、日本付近でほぼ北で、伏角は50°前後を示す)。しかも扁平化や帯磁率異方性の示す面構造とは全く関係がなかった。
これを見ているうちに、また例のブレークスルーがやってきたのである。これは水平南北軸を回転軸に白沢天狗一帯が東に70-80°回転したことを示している。その角度を元に戻したとき、残留磁化は見事に現在の地球磁場の反対方向、逆帯磁方位に一致したのである。さらに、その回転角度は西隣一帯に分布する爺ヶ岳火山岩の構造とピタリ一致した。つまり一緒に回転した、ということは白沢天狗から爺ヶ岳一帯、おそらく西側の黒部流域までの広い範囲で激しい傾動隆起が生じたことを示していた。北アルプスの具体的な隆起運動像が始めて語れるようになった瞬間だったのである。
半月型の岩体の形も、80°西に回転してやると、東の凸の部分の境界や扁平化構造が垂直になり、西側の境界のそれはほぼ水平になった。これは円筒形のカルデラが東に回転したことを示しており、ちょうどコップの底に2cmほど残った水を傾けたときできる円弧と直線部(図参照)とで現在の分布形態(半月型)を近似できることに気づいたのである。さらに東側の復元された扁平化構造は、カルデラ陥没時に高温状態でカルデラ壁に沿って変形したことを示しており、これは陥没カルデラ形成時の運動を復元する上で貴重なデータになることを示していた。こうした連鎖的なブレークスルーが卒論生とともにできたことは実に幸せなことである。これらの結果は2003年に第四紀学会の雑誌にまとめられた。
私の経験した2つの発見の道のりには、共通する点が多い。矛盾や不可解なことを、切り捨てずにずっと悩んだ末のブレークスルーであり、おそらくこれは継続的思考の重要性を示しているのであろう。うまくいかないときが大事なのである。
これからの日本の担う若者には創業能力など様々な点から、創造的思考能力が求められている。しかし、創造的な思考に必要なのは、そこに達するまでの様々な失敗や回り道などの非効率的な試行錯誤である?というのが私のつたない経験からいえることである。残念ながら、効率主義と(目先の)成果主義に振り回される現代の若者には、そうした余裕がほとんどないように見受けられる。延々と一つの事柄にこだわる研究姿勢は、きっと効率・成果主義の敵なのであろう。しかし、それで本当によいのか?創造的な思考を若者に求める前に、近視眼的な効率と成果を求める我々世代が価値観を変え、無駄と非効率に充分目利きし、投資する必要がありそうである。長周期現象を扱う地質科学者としては、少しでも現代の目先の利益・成果主義に警鐘を鳴らし続けていきたいと思っている。
了
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