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講演
『北アルプスの成り立ち』
━黒部川花崗岩と爺ガ岳・鹿島槍ヶ岳━ |
特別寄稿 |
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『北アルプスの成り立ち』
━黒部川花崗岩と爺ガ岳・鹿島槍ヶ岳━
講師 原山 智
はじめに
今ご紹介いただきました信州大学の理学部に居ります、原山智と申します。今日はこういう会にお招きいただきまして、感謝しております。昨年大町の山岳博物館で催しがありまして、その時にこちらにぜひお出でくださいということでご招待頂きまして、一晩この小舎にはお世話になりました。先程来からお話が出ていますが、岳友会を中心としてすばらしいネットワークができていることを羨ましいというか、ぜひお仲間に入れていただきたいなと思って聞かせていただいておりました。
まず自己紹介をさせていただきますと、大学は東京教育大学で比較的早稲田に近いと思うのですが、ただ僕より2つ下の学年で東京教育大学は無くなりまして筑波大学に移行するという,そのような時期でした。それから二つ上の学年は入試が中止になっていて、学生がいないというやや変則的な状況で,あまり落ち着いた雰囲気ではない時期でした。その後京都の大学院に行きまして、それから先程紹介いただきました地質調査所という通産省の関連の研究所に参りました。そこに15年ほどいて、今から8年程前に、筑波から松本の方に移ってまいりました。
地質調査所にいた時の仕事はもっぱら活断層に絡んだ地質調査ということで、国のプロジェクト研究として活断層が密集している地域、あるいは都市部に近い活断層分布域の地質調査をやっておりました。そのプロジェクトの中で私は山岳地域の地質調査をやりました。ただし、私は本当の意味での山の訓練を受けておりませんで、高校時代に当時高校の山岳部の人に誘われて、それが実はこの本の原山&山本の山本なのです。この山本というのは高校時代の山の仲間でして、いきなり冬の八ヶ岳に連れてゆくようなとんでもない奴です。その悪友のおかげで、多少山のこと山登りのことが分かるように成りました。ただ私は日本の山しか知りませんし、海外の山はモンゴルのアルタイ山脈という所に3週間ほど行っていた事があるだけで、ヒマラヤもアンデスも世界の高い山はほとんど知りません。そこら辺のところはこれからぜひ行って見たいと思っているのです。
仕事の方のことですが、北アルプスは約30年前から地質調査をしておりまして、笠ヶ岳という山が一番のスタートです。大学の卒業論文で笠ヶ岳をやって、それからどんどん北上して、槍・穂高地域から、黒部川流域へと進んでおります。
そろそろ今日の本題に入らせていただきますが、実は今日は福岡先生とか小野先生とか明らかに業界筋の方がお出でになりますし、石のことはちょっとと思っていらっしゃる方もおいでになりますし、講師としては非常にやりづらいのですね(笑い)。それでそこら辺を迷いながら話を進めます。こんなことを聞いてはと気後れされる方はいないとは思うのですが、話を途中で止めて聞いていただくなり、それはちょっとおかしいのではと言って頂いて結構ですので、懇談的に話を進めさせていただけたらと思います。
それで「北アルプスの成り立ち」ということで、できるだけこの近くの爺ヶ岳、鹿島槍に焦点を当てたいと思っておりますが、私のやってきた仕事の関係で槍穂高の方を先にやらして戴いて、それから爺ヶ岳、鹿島槍の話をさせていただこうと思っております。
地球の広がりとリズム
それでは北アルプスの成り立ちということで話をさせて戴きます。話の中身ですが、山というのは先程福岡先生から昔の山はどうだったのだろうか、どういうプロセスを経て今の姿になっているのかという話がありました。実は山がどうやってできてきたのかという素性を探るのはなかなか難しい仕事でして、地形というのは地球の歴史の中ではどんどん変わっていくものなのです。武田信玄の昇り旗ではありませんが、動かざること山の如しなどという言葉がありますが、一般的にいうと山というのは、動かない不動の象徴ですね。どしっとしていて、姿形を変えない象徴のように思われているのですが、実は地球の歩みというかリズムで考えると、山の姿というのはどんどん変わってゆく、我々人間はその一瞬を垣間見ているということが実態なのです。地球の流れからいうとそんな風になる。
私たち地質の関係者というのは、非常にゆっくりとした地球のリズムを扱っていますので、話をするときは一日二日という単位ではなかなか話ができないのです。だいたい100万年が一単位だと思ってください。100万年単位はこのあとMaという言葉が出て来ますが、それは百万年前ということですので、うっかり直していないケースがありましたらそのように読み替えてください。皆さんにはこれから意識を変えていただいて、100万年前は一日前だと考えていただくと地球のリズムで物事を考えていただけるのかなと思います。
それで地球の衛星写真(右図)を出させて頂いたのですが、これはナイジェリアの上空300kmからのものだそうです。これを見て、ここに積乱雲がありますが、地上から10kmぐらいの所です。ここに薄く青い筋のようなものが見えますがこれが対流圏、濃密な大気があるゾーンということになります。これを見ているといろいろな思いが湧き上がって参ります。私たちはこの地球のほんのわずか表面を覆っている大気の中で、かろうじて生きていくことができるということです。この外はもちろん大気が対流していませんし気圧も下がっていましてもちろん生活はできません。この写真を出したのは地球上における山というのはどういうことかという説明のためでして、これを見ると入道雲や大気は見えていますが山などはどこにも見えていません。地球の規模から見て山というのはどういうものかということをこれからお話しようと思います。
最初の視点は、地球の凹凸というのはエヴェレストとマリアナ海溝の高いところと低いところを合わせても20kmぐらいで、地球の平均半径は6371kmですから、半径の0.3%ぐらいです。これは地表面が地球サイズから見るとすごく滑らかである、あんなにしんどい思いをして登る山が地球サイズから見ると本当に滑らかだということです。たぶん直径1mの地球儀を作るとエヴェレストが0.7mmぐらいにしか成りませんから、触って良くわかるかどうかぐらいの起伏だということです。これはなぜかと言いますと地球の最初の時期は高温状態で、融けた溶融状態、マグマオーシャンだったと言われていますが、そういう時から地球の重力がずっと続いております。だから勝手に外に飛び出してゆけないという状態がずっと続いております。
それから浸食作用というものがもう一つ大きく作用しておりまして、地球の表面に山ができたとしますとそれをどんどん削ろうとする作用が常に働きます。従って地球というのは常に滑らかに、平らにという働きが続いています。今地表に働いている浸食の量が、この地域では年間にコンマ何ミリメートル削られたという平均値で出たとします。そして世界的な陸域における浸食の平均値を適用したとしますと、今のまま浸食が進行したとすると約3000万年ぐらいで地表の山は無くなってしまうのです。ところが地球は約46億年の歴史がありまして、3000万年よりはるかに古い歴史があるにもかかわらずちゃんと山が残っているのです。それはなぜかと言いますと、後でお話するように常に地球の内部から山を作ろうとする力が働いて、削られては作り削られては作るというのが地球の営みなのです。もう一つこの写真での解釈というか視点がありまして、地球というのはものすごく滑らかで山という起伏も地球サイズからはたいした凸凹でないという話をしましたが、一方で対流圏、この十数キロメートルの中でエヴェレストの9km近い山があるということは、対流に対しものすごく大きな影響を与えます。従って大気の運動に対し、例えばヒマラヤのような大きな山は大きく作用しているわけで、それが環境を変えて生態系にも大きく作用する存在であるといえます。そういう意味では山の存在は、生態系にさらには生物の進化にも影響を与える存在であるということがいえます。こういった意味では山の存在は非常に大きな存在であるということができます。
山ができる仕組み
先ほど少し申しました山を作る営力、どんな力が働いて山ができるかをお話したいと思います。先ほどから山は不動の象徴のように言われていますが、地球のリズムの中でいうとそれは常に動いているといえます。どうして動くのかというとそれは浸食作用、これが外的営力、外側から働く力というもので、それから内的営力、山を作ろうとする力があるからです。
山を作ろうとする内的営力には大きく二つの力があります。一つ目は浮力です。例えば地盤に対し密度の低いマグマとか、密度の低い低密度の地殻があるとするとその一帯の岩盤に浮力が働きます。もう一つはいわゆるプレートの運動なのですが、この力が加わると山が上昇することがあります。これら中から働く力と外から働く力の、せめぎ合っている状態が今の山の姿だと言えます。この内的営力があるから今我々は山を見ることができるわけです。例えて言えばそういうせめぎ合いのなかで大変な思いをして山ができているという言い方もできると思います。
今日はもっぱら飛騨山脈の話を中心に進めてまいりますが、飛騨山脈がどのようにして今の山の姿になったかということについて、実はまだはっきりとしたことが言える状況にはありません。ただここ十数年でいろいろなデータが集まってきて以前よりは確実なことが言えるようになってきたのです。それでこの曲線、隆起上昇曲線を見てください。これ (右図)は、400万年前から現在までの時間を横軸にとり、縦軸には北アルプスの脊梁部、槍穂高連峰付近の平均標高をとったものです。ですからここ(縦軸と横軸の交点)は4日前だと思ってください(笑い)。それで、学者によってこんなにいろいろな説がありますが、今から十数年前1990年ぐらいまでは、北アルプスというのは比較的古い時期、100万年から200万年ぐらい前に山が大きく隆起してそれ以降はあまり隆起が盛んでないとされてきました。日本の山の中では比較的古い山塊に相当するといろんな人によって言われていたのです。私は本当にそうかなと思ってそれ以降ずっと調査を続けてきたのですが、私の主張がこの赤い線(編者注;図では濃い灰色の太い実線)です。確かに200万年前に隆起はあったらしい、ただしそんなに高い山ではない。見てもらうと分かりますが高い所で1500mぐらいで、実はそれ以降150万年から100万年前ぐらいに大きな隆起の時期があるのだというのが、現在最新のデータをもとに私がしている主張で、それがこの隆起上昇曲線です。まだここら辺のことも詳しく分かっていない状況だということがご理解いただけたらと思っています。
先程申しましたように、北アルプスは隆起時期が古い山なのだという意見は代表的なものとして、池田さんという東大の地理学教室に居られる方の主張であります。それは飛騨山脈の断面線、東西の断面線を重ねた図面を作り、これを見てみると非常に激しい凸凹がいくつかある、それに対し木曽の山脈というのはだいたい一つにまとまってくるというのです。確かに飛騨山脈というのは黒部川とか高瀬川とか山脈方向に伸びる大きな谷がありますので、そういうのがギャップになっているのだと思います。こういう非常に激しい凸凹は古い山塊で浸食作用がどんどん働いて、このような地形になったのだというのが池田さんの主張だったわけです。それに対して木曽山脈というのは北アルプスに比べてずっと若くて、今から70万年以降に激しい隆起をしているのですが、それが大きな凸凹ができていない根拠として挙げられているわけです。ですがこういった山脈のプロファイルというか横顔というのは、別の解釈も可能です。つまり時代ごとにもし最初にここが上がって、次にここが上がってというように何回も隆起のステージがあって、上がる場所が違えばこういった隆起のパターンができても良いではないかというのが、私が思ったことです。実際に今日の話の結論の一つは、北アルプスというのは単純な1回の隆起でできたものではない、少なくとも最低2回の隆起の時期がある、その結果あれだけの山脈に至っているというのが話の結論です。
北アルプスに関する新知見
ここ十数年で、飛騨山脈北アルプスの隆起に関して大きな影響を与えた要因に、3つの大きな進歩、発見がありました。一つは飛騨山脈の下に低速度領域があった、低速度領域というのは地震波の通る速度が遅い場所という意味です。地震波の速度が遅いということはどういうことかというと、熱いマグマみたいな液体状態のものがあると地震波が遅くなりますから、地震学者はこういう低速度領域というものは高温で熱いマグマがあるからだという解釈をしています。
それからこれは私がやった仕事なのですが、第四紀というのは地球の歴史の中で一番新しい今から180万年から現在までの時期なのですが、この時期に花崗岩があるということは今まで知られていなかったのです。花崗岩というのは、そもそも地下の3kmとか4kmとかいくら浅くてもそのくらいの所でゆっくり冷えて固まった岩石です。ですからもし第四紀の花崗岩が地表に出るとなると、それを作ったマグマが固まった時に、上にあった岩盤が全てないと、今日見ることができないわけですね。ということはすごく激しい隆起が起こらないと地下深くの岩体が出てこないわけですから、第四紀の花崗岩が北アルプスで見つかったということは、すごい隆起がこの第四紀に起こっていたということです。先ほどの説の反論でいうならば、200万年より古い時期に主な隆起が起こったのではなく、もっと新しい時期に激しい隆起があった証拠になると、この発見で痛感しました。
最後の3つ目のものは、先程お見せしました今から400万年前から現在に至るまでのマグマ活動が、いつどのようなタイプのマグマ活動、火山活動が起こったかということが詳細に分かってきたことです。
この3つの発見を図面(編者注;図面省略)でお話しますと、これは立山と書いてありますが、黒部川峡谷の東西の地下断面を地震波の速度でどうなっているかということを示した図面です。青い方が速くて赤い方が遅い、言い換えればこういう所(赤い部分)は熱くてマグマのようなものがある可能性が高いということです。よく見てみますと立山というのは火山ですが立山より黒部川筋の方がこんな風に高温の領域がある。これを松原さん達はどのように解釈したかというと、立山からこのようなパターンでマグマが上がってくる通路があるのだ、そんな風な解釈をされています。
この図面(編者注;図面省略)は私が飛騨山脈、北アルプス周辺の高温の80℃以上の温泉の分布を調べたものです。関東平野とか濃尾平野とかの深い堆積物のある平野でも3kmや4kmも掘ると30℃とか40℃の温泉は出るのですが、80℃とか100℃という温泉は普通の地下増温率ではなかなか出ません。従ってこのくらいの高温の温泉になると何か熱源があるという証拠なのですね。その分布を北アルプスに見てやると、この赤い小さな点ですが各所にあるわけです。これが槍穂高連峰、こちらが黒部川筋と立山ですが、こういった地域に高温の温泉があるということが分かります。従ってこういうデータからも北アルプスの下はどうも熱い物質がありそうだということが分かってまいります。
ウェストンのレリーフと世界で最も若い花崗岩
これは皆さんがよくご存知のウェストンのレリーフです。このレリーフが埋まっている岩盤が、先程お話した世界一若い地表に出た花崗岩です。この岩盤に名前が付いていまして皆さんご存知の滝谷の名が付いた、滝谷花崗閃緑岩と言います。花崗閃緑岩というのは花崗岩の仲間でして、そういう岩盤にレリーフは埋まっています。この若い花崗岩は、世界的にはどういう位置にあるかというと、それを整理したのがこの表です。いくつものライバルは居るのですが、今のところ、滝谷花崗閃緑岩が地表に出た花崗岩では世界で最も若い花崗岩として知られています。あとはパプアニューギニアとかガダルカナルとかブーゲンビルとか昔の世界大戦の戦場が多いのですが、こういう所には結構若い花崗岩、200万年とか300万年、400万年といった花崗岩が出ています。黄色で書いたのは日本にある岩体で、黒部川筋にもかなり若い岩体があることが分かっています。
これらがどんな所にあるかというと、今の若い花崗岩を世界地図に載せて赤い丸(編者注;左頁の図で大きな●)で示しています。滝谷とか日本の花崗岩、ブーゲンビルとかニューギニアの若い花崗岩です。これがライバルでナンガパルパットの北側にあり130万年前のもので、滝谷をちょっと脅かしつつあるのです。これがグレートコーカサスですね、黒海の脇、イタリア、南米にもあります。これを見ていますと何か小さな点がいっぱい書いてありますが、これは地震活動の震源なのです。地震活動はどういう所で起きるかと言いますと、激しい造山活動をしている所なのです、そういうところだからこそ激しい隆起が起こって、若い花崗岩が地表に出てくるようになったと考えられます。
ちょっと質問をしていいですか(編者注;質問者は福岡先生)。葛根田のものは若い花崗岩とは言わないのですか。
あれは花崗岩ですが地下3kmぐらいの所に在ってまだ地表に出たとは言わないのです。葛根田もどれくらいかかるか分かりませんが、これから地表に出てきます。あれは本当にまだ固まったばかりのもので30万年前ぐらいのものですね。ですから若い時期に地表に出ていること、出るためにはすごい隆起をしないといけないというのがミソなのです。激しい隆起の地域の目安になるということです。
北アルプスのマグマ活動
北アルプス地域のマグマ活動、紹介した若い花崗岩を含めたマグマの活動がどうなっているかというと、分かりにくい図面(編者注;図面省略)で恐縮ですがご覧下さい。横軸は北アルプスを南北に北からの位置をとっていまして、赤い三角は今火山地形が残っている乗鞍火山列の火山で、白馬大池、立山、雲の平、焼岳、乗鞍、御岳ですね。縦軸はどういう時期に活動したかという時間をとっています。見てみますとある特徴が浮かび上がってまいります。今の乗鞍火山列、焼岳や御岳や立山にしても、複成火山といって同じ通路を使って何度も何度もマグマが出てくるような火山で、これが乗鞍火山列の特徴なのです。もう少し正確に言いますとそれは80万年以降に、そういったタイプの活動が起こっているということが分かります。その時間と場所をこの黄色の枠で書いてあります。例えば焼岳などは溶岩ドームを作るようなタイプの、雲仙普賢岳に似たような活動をしています。そういった活動をしているのが乗鞍火山列の特徴です。
それではそれより昔はどうなっていたかということなのですが、全然性格の違う火山活動、マグマ活動が行なわれているのですね。まず一つこの紫の点で書いてありますのは、先程複成火山と言いましたがそれに対して一つの通路を一回しか使わないタイプの、業界用語では単成火山というもので、しかも岩質は玄武岩です。今の乗鞍火山列というのは安山岩とか石英安山岩と言った岩石なのですが、この紫の点は玄武岩、伊豆大島とか富士山とかハワイとかという所と同じ岩質の単成火山です。それからもう一つ特徴とされるのは大きなカルデラ火山があることです。大体160万年とか二百数十万年前の火山活動というのはそういう大型の巨大カルデラあるいは玄武岩の火山で特徴付けられているのです。
こういう火山活動の性格が何を表しているのか、違いが何を示しているのかと言いますと、それは火山活動と岩盤に加わっている力の関係でいろいろな経験則がありまして、これから現在の乗鞍火山列のようなものには、岩盤に圧縮力が加わっているタイプの火山活動を示しています。それに対し大きなカルデラや玄武岩の単成火山と言ったものは、どちらかというと引っ張りの場に近い場所で起こる火山活動を示しています。よって火山活動のタイプの違いは岩盤に加わっている力のかかり具合が大きく変わった時期が今から約140万年から150万年ぐらい前の時期であり、その時期に地殻にかかっている力が大きく変換したことがありそうだということを、こういうマグマ活動の歴史の中で読み取ることができます。
北アルプスの隆起
北アルプスの隆起の話で、私は何回か、少なくとも2回は隆起のステージがあるという話をしましたが、つまり1回目と2回目がある、1回目というのは大体200万年前の時期に相当するのですが、その当時の隆起あるいは山の高さというのは詳しいことはよく分かりません。
古くなればなるほどこういう地形の復元というのは困難になってくるのですが、こういう古い時期の200万年という数字がどうして出るかと申しますと、山が隆起しますとそこに浸食作用が働いて浸食作用の結果できた砂や礫が周りの盆地、堆積盆地に運ばれてきます。その盆地の地層の中にいつ頃からその隆起を反映した礫や砂が大量に運び込まれてくるかということを、堆積盆から逆に見てやることによって間接的にいつ頃から山が隆起し出したかということが分かるのです。
そういうことをやってみますと第一段階というのは、一番早い隆起の始まりが230万年前後だということが最近分かってきました。その当時の堆積物というのは北アルプスがここにあって、東側ではちょうど我々がいる所、専門的には大峰盆地というところですが、かつての盆地に溜まった堆積物があるところです。こういう所を調べてみると礫や砂が大量に運び込まれた時期が230万年頃だということが分かってきます。後は富山盆地も同じような時期、高山盆地にも同じような時期に山の隆起を示す堆積物が供給され始めています。
もう一つ面白いのは、当時の一番高い山脈の脊梁というのは、礫の種類を調べてやって礫がどこから来たのかということで分かります。従って長野県側の河川がどこまで奥に入っていたかということが、礫を見れば分かるのですがどうも今よりは手前の山地、常念岳から餓鬼岳を伝って後立山につながるところまでで水系が止まっていたということが分かってきました。今の高瀬川ですと槍ヶ岳の北側まで入っていますね、ああいう河川系が当時は無かったらしいということが分かってきましたから、脊梁の位置は今よりは少し東側にシフトしているらしいのです。
当時の隆起のことがよく分からないと申しましたが、これは富山盆地から水晶岳にかけての地形断面に地質の要素を加えた地質断面図(編者注;図面省略)です。黄色で書いたのは大体恐竜が生きていた時代、約1億2,000万年前の地層なのです。この地層の基底面というのが当時の海面くらいで形成されているのですが、従ってそれ以降の累積の隆起状況を地層の基底面は示していることになるのです。しかしあまりにも今日までの時間がありますので、詳しいことはここからは言えないのです。それでも面白いことに、この基底面というのは、富山平野ではほとんど海抜0mのところにあるのですが、だんだんと北アルプスの中軸部にかけて上がってきまして、水晶岳が今確認されている所では一番高く2,900mくらいで、地層の基底面を追跡することができます。
したがって北アルプスの隆起というのはこの地層から西側に関しては少なくとも4kmも5kmも上がっていることは無いということが、こういう状況から分かります。これはおそらく富山盆地の地層などを調べてまいりますと北アルプスの中央部に向かって上がる動きというのはそんなに昔の事ではなくて、今から230万年前に始まった第一次隆起が基底面を上げる作用に関与しているのではないかと考えております。第一次隆起に関してはまだ分からないことが多いということです。
超火山槍穂高の秘密―巨大カルデラ
二番目の話に移ります。今度は槍穂高、超火山槍穂高の秘密ということで、槍穂高での隆起の話をさせていただきます。この後再三カルデラの話が出てまいりますので、カルデラの話を先にさせていただきます。カルデラとは火山地形の一つで、いろいろな種類がございます。皆さん火山というと富士山のような高い山をイメージされる方が多いのですが、必ずしも火山の定義には山である必要はないのです。日本では火山と言いますからどうしても山のイメージがありますが、例えば凹地でも火山活動によってできた地形ならば良いわけで、それも火山地形です。こういう凹地形を作っている直径1km以上のほぼ円形に近い地形をカルデラといいますが、成因的にはいろいろです。しかしこういう凹地形の成因で一番多いものは陥没カルデラというというものです。そしてこのような火山地形の中でも最も規模が大きいものですから、いろいろな人が興味を持って研究対象としています。
細かい図面(編者注;図面省略)で恐縮ですが、陥没カルデラの典型的なでき方として説明されていますのは、まず地下の浅いところ、数kmのところまでマグマが上昇してマグマだまりができます。そうするとある時にマグマだまりの中で圧力の低下とか、温度の急上昇とかが起こりますと発泡現象といって、急速にマグマが膨らんでその中がマグマの泡だらけになる状態が起こります。すると急速に膨張するものですから、岩盤の間の通路を使ってマグマが上昇し噴火が始まります。噴火が始まってマグマだまりから地表に物質が供給され始めると、マグマだまり自身は圧力が低下し始め、その分に見合うようにマグマだまりの上にあった岩盤が沈みこんでくる。そうすることによって凹地、陥没地形が生まれることになります。できた陥没地形のところは、火山活動が続いていますので、凹地はそのままではなくて噴出した火山灰や溶岩がこの凹地を埋め立てていく、そういうような形で陥没カルデラができていくという説明です。
先ほど北アルプスでは、岩盤にかかっている力が今から150万年とか140万年を境にして大きく変わったと申し上げましたが、浅い所にまでマグマが上がってくるためには、岩盤に引っ張りの力が加わっているコンディションのほうが、マグマが上がり易いと言われています。
これ(右図)は槍穂高地域のカルデラを、非常に概念的に描いた図面です。この場所は焼岳で、この付近が上高地、そして穂高岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳とこんな位置関係になります。穂高地域も約170万年とか180万年前に大きな噴火を起こしたカルデラ火山だったのです。しかし噴火から時間がたってどんどん浸食が働いていますので、今はもうカルデラ火山も火山地形も残ってはいません。ただ先ほど言いましたカルデラを埋め立てた火山岩は、現在でも見ることができます。その埋め立てた火山岩のなごりが緑(編者注;図面では薄い灰色)で表した部分です。ですから槍穂高連峰の大部分は、その当時のカルデラを埋め立てた火山岩でできているということになります。
この赤の+(編者注;図面のGt)で書いてある部分は、先ほどご紹介をしたウェストンのレリーフの岩盤を作っている、世界一若い露出花崗岩の滝谷花崗岩です。これはカルデラを埋めた火山岩と接触していまして、後から上昇してきた滝谷花崗岩が、カルデラを埋め立てた火山岩を貫いて、これに接触熱変成作用を与えています。つまりこの熱によって火山岩をこんがり焼くような作用を与えています。
この模様(編者注;図面では⊥)で描いたのは当時の陥没カルデラの境界ですが、この場合にはあまり円形ではなくどちらかというと南北に長い形をした陥没カルデラということになります。
埋め立てている火山岩は昔はヒン岩と呼ばれていることが多かったのですが、ヒン岩というのは地下でマグマがそのまま固まった岩石をいうのです。しかし私がいろいろ調べてみるとこの火山岩はマグマが地下で単純に固まった岩石ではなくて、明らかにカルデラに噴出した地表を埋めた火山物質であるということが分かりました。それの岩盤の状況を皆さんに見ていただきたいのですが、ここの部分の白い斑点が少し大きいような気がしませんか。この部分はにわかには信じがたいと思うのですが、軽石だった部分です。それに対しもっと細かな斑点の部分は軽石以外の細かい火山灰ということになります。何でこのような物が見えているかというと、もともと軽石というのは気泡だらけで、マグマの中からガス成分が発泡して泡を作っているわけですが、それが火山灰と一緒にカルデラを埋め立てて、自分の重みと熱で扁平化してくるのです。こういうのを溶結現象といいますが、結果として元々は軽石とか火山灰などがこんな状況で溜まった物が、後からの堆積した時の重みと熱でこのようにひしゃげて来るのです。これが先ほどお見せした、「元」軽石がこのようにひしゃげている理由です。立体的にはドラヤキ型なのでして、つぶれてドラヤキの形になった物の断面を見ていることになります。ここで大事なことは、つぶれた方向が当時の重力方向、つまりこの線が2本違う面で求まれば、当時の水平線がわかるということになります。
槍穂高の火山活動
槍穂高のカルデラ火山は今お話したように南北に長い形態をしているのですが、新穂高から明神にかけての地下断面を切ってみますとこんな風になっています(右図)。ここは新穂高、そして西穂、明神辺りになりますが、かつてのカルデラ火山というのはこのように復元できるのです。厚さは最大で3kmくらい、この部分と明神の東側にかつてのカルデラの壁があったということが分かっています。その下に先ほどお話した滝谷のマグマが上がって来て、滝谷花崗閃緑岩になったということになります。後からお話しますが、これがちょっと傾いているというのがミソです。
槍穂高のカルデラから噴出した火山物質はその多くが火砕流と呼ばれるもので、このカルデラは火砕流を噴出するタイプのかなり規模の大きな火山活動をやっています。これは高山で、こちらが御岳でこの範囲に今現在、槍穂高カルデラから噴出した火山物質が残存しています。今はこのような散在状態ですが、かつてはおそらくこの一体を埋め尽くす、カバーするような火山灰が槍穂高カルデラから噴出して流れていったのです。
この厚さを復元すると高山付近で50m、新穂高付近で300mぐらいの厚さでとんでもない量になります。これが約176万年前で、ボリューム(体積)でいうと400立方キロメートルくらいになります。400立方キロメートルというのはピンときませんが、一辺7kmの立方体でもまだ400立方キロメートルに達しませんね。富士山の円錐を半分からスパーンと切って上が大体400立方キロメートルになると思ってもらって結構で、そのようなボリュームです。実はこれが1回で終わらずに、もう1万年後の175万年後にも300立方キロメートルに達する火山灰が噴出しております。結構乱暴なカルデラ火山だということになります。
イメージ的にはこんな風になります。槍穂高カルデラから噴出しながら陥没し、ここに物を溜めるようになり、ここからあふれ出したものが高山方面へ流れ、東側には当時の脊梁山脈がありましたがこれも乗り越えて、火砕流の雲はこっちが厚くて、こちら東側が薄くなっていますが、現存する火山岩層のことを意識して細かい図にして居るのです。つまり、脊梁山脈があったものですから、東側には火砕流のあまり厚いものが残らず、もっぱら西のほうに大量に供給された、ブロックをされていたということが分かっています。そうは言っても、この槍穂高から噴出した火砕流というのは、この脊梁山地を越えて松本盆地側にも、当時松本盆地は無いのですが、現在の松本盆地に相当するところに流れてきております。実は私たちがいるこの大峰山塊にもその証拠があるのですね。当時の176万年前、175万年前の大噴火の痕跡がこの大峰山塊にも残っております。
これ(編者注;図面省略)は町田先生という方が1997年に書いた論文のスケッチを引用させていただいたのですが、池田町の会染(あいぞめ)という所に道路の沿って大きな露頭というか岩盤、地層が現れていたのです。このスケッチは東西の地層の現れ方を概念的に描いた図なのですが、ここに2枚の火山灰層が挟まっています。これが槍穂高から噴出した火砕流堆積物でこれが176万年前、こっちが175万年前です。間にあります点々は当時の扇状地にある砂礫で、そういう砂や礫の間に火山灰層が挟まってそれが現在でも残っているということです。この176万年とか175万年とか言っている数値は、昔のことはよく分からないのに3桁の数値というのは、怪しいですよね福岡先生(笑い)。何でこんな細かいことを見てきたかのようにいうかと申しますと、それなりに根拠があります。
実は今の火山灰ですが、火砕流で到達したのが大体このくらいの範囲(編者注;下図の網掛部)になりまして、約3000平方キロメートルくらいを覆い尽くしています。700℃とかそれを越えるような物質が流れてくるのですから、この範囲の生物は死に絶えてしまったわけです。それに対して上空に巻き上がった火山灰というのが、ジェット気流とかで運ばれてかなり広範囲に広がって、現在でもいろいろな所で見つけることができます。一番西は何と淡路島まで飛んでいますし大阪付近、濃尾平野でも見つかっています。それから中越地震で大変だった魚沼地域にも見つかっています。先ほど福岡先生がおっしゃっていた房総半島にも当時の火山活動の記録が残っております。この60cmとか40cmとかいうのは火山灰の平均の厚さで、房総半島などで厚い所は70cmの記録が残っています。
それで房総半島の地層の中に残っている穂高起源の、槍穂高から由来した火山灰のことをお話したいと思います。房総半島のところで地層の積み重なり方を表現したものは、我々が地質柱状図と呼んでいるものです。つまりどういう物質がどういう順番に溜まっていったかということを表した図(編者注;図面省略)です。大部分は海の堆積物で当時の海に溜まった砂や泥ですが、その間に先ほどお話した176万年と175万年の火山灰が挟まっているのです。それでこの細かい数字を刻む根拠になったのが、この地層の中に残っている地球磁場の逆転の記録なのです。
この現象は世界的にいろいろと調べられて居りまして、現在では177万年ぐらい前に一度起こっているとされています。さらに地層の中に微化石で石灰質ナンノフォッシルという顕微鏡で見ないと判らないような化石が入っているのですが、この中で172万年前に出現する種類が房総半島の地層の中から見つかっているのです。そうしますと後は177万年と172万年の目盛りが付きましたので、火山灰がはさまっている所は地層の溜まり方が一定だとすれば、176万年と175万年という数値が出てくるのです。このようなからくりであえて3桁の数値を示しているのですが、もちろんこの辺の年代が今後の研究で変わることがあるかもしれませんので、この数値も変わるかもしれません。
この火山岩というのは、滝谷の世界一若い花崗岩の年代の解釈にも大きな影響を与えます。火山岩が噴出した後にマグマが上昇してきて滝谷花崗閃緑岩になりましたので、少なくとも175万年よりも後に滝谷がマグマとして上昇してきて花崗岩になったということが分かります。
静と動 ― 笠ヶ岳と南岳
これ(右上図)は槍穂高連峰を、北穂高だけから槍ヶ岳の方面を大キレットをはさんで見た写真で、通称獅子鼻と呼ばれるのだそうですが、南岳の南面に広がっている岩壁が見えています。ここを注意深く見てみますと東側に斜めに連なる地層面が見えています。それに対して縦に筋が入っていますが、これは冷却節理と呼ばれる火山岩が冷却するときにできた割れ目です。
ここに現われている地層を調べてみると本来たいらに溜まった地層がその後の動きで約20度東に傾いているということが、火山岩層の構造から読み取ることができます。したがって175万年以降に槍穂高地域では東に20度くらい傾く運動があったということになります。
それに対して槍穂高連峰の西側にある隣りの笠ヶ岳、ここは私の卒論のフィールドだったのですが、ここにもほとんど水平に連なる筋が見えています。これは実は時代がうんと昔の6500万年前、恐竜が絶滅した頃のカルデラ火山でその断面が新穂高のロープウェイから見事に見ることができます。これ(前頁下図)は見てのとおりほとんど傾いていません。ほとんど水平です。かたや槍穂高連峰は傾いていてこっちは水平ですからどこかに境があるはずです。その境を調べてみますと今の新穂高蒲田川筋だということがわかります。ここを境に東側の槍穂高連峰は、ここにも断面が見えていますが、東側に傾くような運動があったということが分かっています。
この動きを、どうしてこのように傾いたのだということを、もっと広い範囲で調べてみますと実は槍穂高連峰の南、焼岳火山から鉢盛山、奈川村、さらに経ヶ岳、中央アルプスを経て伊那谷へつながるかなり大きな断層があることが分かり、これは境峠断層と呼ばれています。境峠というのはたぶんこの辺の峠ですね。この断層はほとんどの所では横ずれ要素の大きな断層なのです。断層を境にこちら側にいて向こう側を見ますと、左に動いてずれているように見えますからこれを左横ずれ断層と言います。この左横ずれ断層でこちら側のブロックが北側へ、こちらが南側へという動きをしているのですが、この断層は焼岳の下を通って新穂高辺りからは北へ屈曲するのです。このブロックはこうやって動くのだけれど断層自体の境は南北になっています。したがってブロックの動きはここでは横ずれではなくてずり上がるようになっているのです。内側のブロックがここを境に西側にずり上がるような動きをしているだろうというのが、たぶん槍穂高地域の断層運動のベストな解釈だろうと思っています。
槍穂高連峰の成立
槍穂高連峰はこのずり上がる動きによって東に傾いたのだろうと考えております。それを分かり易く断面(右図)で書くと、槍穂高連峰の当時の火山活動の後で生じた構造運動によって、地盤が東側のブロックがずり上がってゆくものだから、本来水平に溜まっていた地層は東へ傾くという回転運動をここで起こしていることになります。これが槍穂高地域の隆起を説明する一番良い考えだろうと思っています。
なぜこんな所で断層を境にずり上がったのだろうということの解釈は難しいのです。しかしこれも現在他の地域のデータと合わせて、多分これが一番可能性の高いものだろうと考えていますのは実は滝谷(花崗閃緑岩)で、一番大きく関係しています。滝谷(花崗閃緑岩)というのは現在地表に一部が現われているのですがまだ若い花崗岩ですので、そのマグマ自身あるいは後からきたマグマで、地下はまだかなり熱い状態だということが他の地震波のデータからも分かっております。そうすると周りよりも、冷え固まった岩盤が広がっている地域よりも、この硬い岩盤の厚さが薄いということになります。この部分が軟らかいだけに、周りよりも弱いとも言えます。日本列島は東西に圧縮の場にありますが、この圧縮の力が加わった時に、一番弱い所で岩盤がぶちっと切れて動くのは、非常に素直といえば素直な現象です。これが、ここに軟らかいマグマがあるために、多分これを境に岩盤が切れたのではないかという説明で、第二次隆起の槍穂高バージョンです。3番目、4番目を続けてお話させていただきます。
ちょっと質問を宜しいですか(編者注;質問者は福岡先生)。槍穂高が傾くのは上昇運動としてではなく、プレートテクトニクスによるものであるということですか?
元々の力の起源はプレートでしょう。但しそれは上昇運動にはつながらない?傾かせたのだけれど競り上がって来た、つまり回転運動とともに西側がせり上がって来ますから傾いたということです。
基本的に、持ち上がるほうは浮力で持ち上がるということですか?
それはまた難しい問題で、詳しくお話しませんでしたが、北アルプス(の上昇運動)は、2段階あってその始まりの方は230万年前です。その当時のことは詳しくは分からないのだけれど、マグマ活動がその頃から非常に盛んになります。ですからそのマグマの浮力は少なくとも効いているはずです。それがどの程度寄与したか分かりません。
どっちの方が強いのですか?
私はマグマの浮力より150万年以降に始まった東西の押しによる力の方が、今の山を高くすることに効いていると思います。
池田さんは浮力の方ですね?
そうですね。池田さんはしかも一回しか考えていません。滝谷や槍穂高が傾いていることを当時は知りませんでしたから、割とシンプルにお考えになったのです。そういうわけにはいかないというのが僕の主張です。
超火山の上をゆく後立山連峰
今日この後に、コンディションが良ければ皆さんといっしょに見に行きたいと思うのですが、後立山連峰というのは槍穂高の比ではないとんでもない事が起こっているのです。それをこれからお話したいと思っています。
今からお話する地域は、この北アルプス地域の地質図(グラビア参照)で赤く塗られた所で、ほとんどが古い時期の花崗岩なのです。場所はここが大町ですね。私たちは今この付近にいるのでしょう。その西の方に実は花崗岩ではない火山岩類が2ヶ所分布しております。一つは扇沢付近に分布している扇沢から爺ヶ岳、一部は鹿島槍近くにかけて分布している爺ヶ岳火山岩類というのがあります。ちょっとキーワードになりますので言葉の説明だけさせていただきます。もうひとつ東側に白沢天狗岳という山があるのですが、この一帯に分布している火山岩があります。後立山の隆起を語るときにこの2つの火山岩の存在がものすごく大きな役割を果たすことに結果的になりますので、この2つを覚えておいてください。
それでいきなりの証拠写真(グラビア参照)です。爺ヶ岳に登られた方は大勢お見えになると思うのですが、今度登られたらぜひ南峰と本峰の間に白沢のコルというのがありますので注意してみてください。その鞍部に行ってみますとこんな(写真にあるような)地層が現われているのです。今日はそこで採ってきたサンプルを用意していただきましたので、皆さんにお回しして見てください。つまりこの地層を作っている岩石です。実はこれは非常に良いサンプリングをされていまして、この面が実は現在の水平面です。こうやって見ていただきますと、居ながらにして白沢のコルの岩盤の様子を見ていただくことができます。こういう風に見てください。正確に言いますと実はこういう風になっていまして、これが白沢のコルにある状態です。東に向かってこういう地層が約75度から80度ぐらい傾いた状態で露出しています。これは現地で撮った写真ですが、この場所で80度くらいでしょうか非常に東に大きく傾いた地層が現われています。
これは何かといいますと、爺ヶ岳付近にかつてあった巨大カルデラ火山、そのカルデラ火山の湖に堆積した地層なのです。物は火山灰、一部は砂礫なども入っていますが、その湖に堆積した地層が現在東に80度傾いているようなコンディション、状態で白沢のコルの所に現われているのです。実は昔から白沢のコルにこの様な湖に堆積した地層が出るということは分かっていたのですが、どういう時期に活動した、どういう時期の地層かということが分からなかったのです。したがって地球の歴史の中で、数千万年も経てばそういう激しい地殻運動もあっただろう、ということで話は済んでいたのです。
調べてゆきますと、この爺ヶ岳の火山岩というのはわずか200万年前、2日前に起こった火山活動だということが分かってきました。そうすると結構大変なことになってきます。2日間の間にこんなに地層が傾いてしまうわけですから。激しいとんでもない活動が、どうやらこの後立山連峰で起こっていたらしいということが分かってきました。
さらに詳しくこの地層を調べてやりますと、この石の中にも現われているのですが、こんな風に急な地層になると、どっちが本来の上か下かということが分からなくなってしまうのです。ですがそれが分かる方法があります。物というのは、小学校の時に実験でやったような気もするのですが、土とか石とかいろいろなものを混ぜてビーカーの中に沈めてやりますと、大きなものが粘性抵抗の関係で速く沈みます。つまり放って置きますと、粗いものから細かいものへの移り変わりがビーカーの中で起こるのです。それと同じようなことが湖の堆積物の中にも見つかりました。そうしますと粗いものから細かいものへ、地層は下から上へと変化します。当時の上と下をこれで読み取ることができるのです。そんなことで調べてみますと、東の方が当時上でありこちら側が本来の下であるということが分かってまいりました。今見ている写真の左手、東側が上ということが分かってまいりました。
幻のカルデラ ― 爺ヶ岳、白沢天狗岳
これからは大学院の学生と一緒にやった仕事の一部を紹介させていただきますが、この爺ヶ岳、白沢天狗岳のフィールドというのはここ5,6年ずっと大学院生とともに調べてまいりまして、原山研のフィールドの一つになっております。
この爺ヶ岳、白沢天狗岳というのは、典型的な陥没カルデラであるということが分かってきました。特に白沢天狗火山の方は典型的なカルデラでして、簡単に示しますとほぼ円柱状に近いカルデラが、先ほどお話したような東への激しい隆起・傾動運動、上昇しながら傾く運動によって、今この様な横倒しの状態になっているのです。それがそのまま浸食作用が働きまして、円筒の茶ずつ上の大部分が削られてしまった状態、今わずかに残っているこの部分が現在残っているのです。したがってこの部分というのは、東側が凸な形で
して、言わば半月状をしているのです。
半月型というのはこういう回転運動によって浸食作用が働いたためになったと考えられます。(わずかに水の入ったコップを傾けて見せながら)こういう状態、ここの部分が半月の弧の部分で、ここの部分が弦の部分ですね。そんなようなことで、非常に上手く説明できるということが分かってまいりました(右図)。
今お話した白沢天狗岳のここが東へ弧を描く部分、こちらが弦の部分です。中に溜まっている火山岩の構造を非常に丹念に測ってやりますと、本来水平に溜まった火山岩の構造というものが80度とか75度とかいろんな急傾斜を示すことが分かってまいりました。さらに丹念に調べてやりますと、大部分が東へ70〜80度傾いているのですが、この東の縁の所だけは逆に西に傾くあるいは水平な構造を示すことが分かってまいりました。何でこんなことが起こっているのかということが当面の課題だったのですが、これをいろいろな方法で調べてみました。今、東西の断面を調べてみましたが、ここが本来のカルデラの底です。そしてこちらが東側の壁ですね。こういう状態の傾いたものが残存しているということが分かってまいりました。中に入っている堆積物というのは2000mを越えています。そして半月状の分布を示し、中央部と周辺部で火山岩層の構造が異なる、というような特徴があります。
これは地層面の方向を表現する方法なのですが、そうやって整理してやりますと西側にある爺ヶ岳の火山岩、白沢天狗のカルデラの中央部は東へ70〜80度大きく傾くという構造をしています。しかし白沢天狗のカルデラの縁だけがほとんど水平に近い構造を示すということが分かってきました。それはこの断面に表現されていますがほとんどは東へ傾く構造の中で東側のところだけが非常に緩やかになっています。これはなぜかというとカルデラが陥没するときに、火山岩層を引きずりながら、溜まっていくときに縁の部分では陥没しながら溜まるものですから引きずり作用が起こって、堆積直後に変形を起こしているのだろうということが分かってきました。つまり陥没カルデラのでき方もここに記録されているということが分かってきました。
何よりも直感的に分かるのは、1週間前に鹿島川の支流の小冷沢というところに調査に入っていたのですが、そこに行きますとこんな風に横に筋の入った、業界用語では節理ですね、火山岩層が現われています。物は凝灰岩、火山灰が固まった溶結凝灰岩で、この横の筋というのは冷却節理です。今、東から西へ向かっている写真で、どんな風になっているかと言いますと、これが柱状節理の方向でこれが火山岩の冷却柱状節理、それに対しこの線が本来の水平面です。これだけ大きく水平から傾いているということが、こんな柱状節理からも見ることができます。
この白沢天狗のカルデラのでき方を含めてどんな動きをしているかというと、この絵(編者注;図版省略)をご覧ください。まず陥没によって火山灰層が堆積してゆき、そのときに周辺の部分は陥没しながら溜まってゆくものですから、このように引きずり変形を起こしてゆきます。これは古地磁気のデータによっても、高温で600℃以上の高温で変形したということが分かるのです。そしてそれ以降に古地磁気を獲得して、それが現在までの浸食、傾動運動によってこの部分しか残っていない、これが白沢天狗のカルデラの痕跡であるというわけです。まとめますと、白沢天狗というのはどんな風に陥没していたのかという証拠も残っていると同時に、大きく東へ傾いたということが分かってきたことです。
世界でもまれな黒部川花崗岩
後もう少しですので、まとめの方に入りたいと思いますが、その前に黒部川花崗岩の話をしたいと思います。黒部川花崗岩の話は、この『超火山』の本の後ろの方にかなり詳しく書いてあります。
黒部川花崗岩というのも滝谷花崗岩と並んでかなり若い花崗岩体なのですが、北は欅平周辺から南は針の木雪渓辺りまで分布しているかなり巨大な岩体です。約200万年前にマグマとして上がってまいりました。この花崗岩の特徴は、『超火山』では「クラゲ様物質」と呼んでいるのですが、業界用語ではエンクレーブと言います。この黒いラグビーボールのようなものがいっぱい入っているのが特徴です(右図)。こういった「クラゲ様物質」がこれだけ大量に入っている花崗岩体は、世界的にもまれだという事が分かってまいりました。どんなでき方をしたのかということが、専門的には問題になったのですが現在のところ、別の玄武岩質のマグマがまだ花崗岩が溶けているときに入り込んできて、中で固まって分散したのがこれではないかと考えております。その話はかなり業界的になりますので今日は置いておきます。
実はこの花崗岩体は後立山連峰が大きく傾いたときの痕跡を残しております。黒部川筋へ行って、黒部川花崗岩の中を調べてやりますと、こんな構造が見えてくるのです。今岩石のサンプルを取ってきて、ダイヤモンドカッターで切って平面を出した所なのですが、サンプルのこちら側が西側、こちら側が東側になっています。これが水平線です。現地の方位が復元できるように写真が撮ってあるのですが、そうするとほとんど垂直方向の筋が見えています。
この構造を詳しく見てやりますと、実は断層なのです。断層でも非常に高温の状態で変形した、300℃とかそれ以上の高温で変形した組織だということが分かってきました。この動きは断層を境にどんな風に動いているかといいますと実は右側は上に、左側が下に動くという相対的な動きをしております。つまりこちら側が後立山、後立山連峰がぐぐっと上がった証拠が黒部川花崗岩の中に残っているのです。しかも高温状態で変形した組織があるということは、黒部川花崗岩が、冷え固まっているのだけれどまだ熱いうちに動いたという非常に重要な証拠です。
今の話を図(編者注;図版省略)に書きますと、今お話した赤い色で示した黒部川花崗岩がこの断層を境に高温状態で変形した証拠が残っています。東側のブロックが上がって相対的にこちら側があがる動きをした。爺ヶ岳は85度くらい東へ傾いたし、白沢天狗岳も東側に70度〜80度くらい東へ傾いています。かつてのカルデラがこんな風に大部分が空中にあって無くなってしまっているのです。
この一帯はどういう風に解釈できるかと言いますと、この様に岩盤を、非常に深い所のものをほとんど直立状態まで傾かせるのは難しいことです。したがって、地下に向かってほぼ水平ラインに収束していくような、そういう断層を境に回転運動を起こさせないと、広い範囲にわたって地表部を直立状態に持っていくことは難しいのです。しかもこういう様に深い所で水平に移行してゆくような(断層)、業界用語でディタッチメントと言いますが、こうなるには理由がありまして物性がものすごく大きく変わるのです。地表の部分では岩石はすごく硬いですが、深い所に行きますと温度が上がって非常に流動し易くなります。この物性の境のところで水平のすべり面を起こす断層が良くおこるのです。したがって地表の部分だけが、浅い所だけが上手く回転するような、そういうモデルを立ててやれば先の様な説明ができるのです。
山小舎の下も傾いている
実はこの後立山連峰だけではなく、もう少し東側の我々は東フォッサマグナと呼んでいるところ、そして今私達が居る大峰山地、それから後立山連峰、みんなそれぞれに激しい変形運動を起こしているのです。面白いことにそういった変形運動を起こしているのは、北アルプスでも東側の範囲に限られていますが、最前お話した槍穂高地域、後立山地域、こういったところで東へ大きく傾く運動をしているのです。
これをもう少し広い範囲で見てやりますと、先ほどのモデル断面もありましたが、北アルプスにとどまらずその東側の地域にもその運動があったのです。たとえがこれ(右上図)は今私達が居るこの大峰帯の地質断面ですが、ここでも運動によって地層が大きく曲がる褶曲運動をしています。この地層の時期は大体230万年前から160万年前で、この頃の地層がこんな激しい変形をしています。しかも面白いことに下の古い地層ほど激しい変形を起こしているので、この地層がたまっている時にこういう変形運動が進行していたということが分かります。その変形時期は二百数十万年前から150万年前ぐらい前に進行した運動の結果であると言えます。
そういったことで地層の変形を解析してやりますと、こういう北西‐南東方向の力によって、圧縮力によって地層が変形したということが分かってまいります。この赤い線は褶曲を激しく起こした軸を表現しています。
これ(右図)が広い範囲で見たときの変形運動、地殻運動のまとめの図面になりますが、この地域というのは東からだんだん変形の場が西に移ってまいります。北部フォッサマグナでは大体400万年から200万年くらいの時期に激しく変形を起こして、地層が褶曲しております。それから西隣の大峰帯、今我々があるところは、先ほど申しましたが230万年から160万あるいは150万年ぐらい前に変形をしております。それから後立山は140万年以降、白沢天狗岳は160万年前のカルデラですからそれ以降に変形をしています。
この様に変形の場が西側にシフトしているということがわかってまいりました。これはおそらく東西の圧縮の力が、この間それほど大きく変化していないので、変形の場だけが西側に移動していったということです。つまり一番変形し易い所に力が加わって地層が折れ曲がった、傾動隆起を起こしたのではないかという風に考えております。
北アルプスの成り立ち
今、北アルプスより広い範囲の話をさせていただきましたが、北アルプスの方に絞ってまとめをさせていただきます。
まず北アルプスには少なくとも2つの隆起段階(下図)があり、その一つは25?と書いてありますが、250万あるいは240万年前に始まった隆起、これはあまり実態がはっきりしておりませんが、激しい傾動運動を伴うようなものではなく、広域的なかなり緩やかな上昇をしていたのではないかなと思っております。踏み込んで言えば高さは最高でもせいぜい1500mぐらいではなかったかなと思っておりますが定かではありません。
第2段階は北アルプスの東側で起こった東側への激しい傾動運動を伴う隆起、これは140万から80万年前が一番激しい時期で、それ以降80万年以降は松本盆地の東側の断層がもっぱら活動するそういう地殻運動に変化していたというのが最近の考え方です。この理由について、なぜこの時期に東へ傾く運動が激しくおこったのか、それはどう考えるのかなどとよく質問されるのですが、これはなかなかの難問です。一つは、日本の南にあるフィリッピン海プレートの沈む方向が変わったという主張をされている方がいます。それが関係している可能性もあるかなと思っています。この辺の所はこれからまだ詰めるべきところで、ちょっと難しい問題です。
最後まとめです。北アルプスの隆起というのは、非常に広範囲に緩やかに上昇する時期、曲隆などと業界用語ではいうこともありますがそういうステージと、激しい傾動運動を伴う隆起時期に区分ができるのです。少なくとも傾動隆起をした領域というのは山脈の東半分で確認されています。
傾動隆起にあたっては、地殻の中に入ってきたマグマがその付近を脆弱化させ、そこが断層を発生させる場になって後々の傾動運動に結びついてゆくと考えられます。マグマの存在と冒頭の方でお話した圧縮の場に大きく変わったことが、2回目の激しい傾動隆起を引き起こしたのではないかと考えております。ということでかなり業界的な話も入ってさまざまな話になりましたが、以上で終わりにさせていただきます。(1時間28分)
記録 23期 望月 高明
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