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2004年6月
講師紹介
荒井 和比古 先生
特別寄稿
一幅の掛軸をめぐって
− 渡辺敏と白馬岳 −
講師特別寄稿

一幅の掛軸をめぐって
− 渡辺敏と白馬岳 −

荒井 和比古


 我が家で大切にしている一幅の掛け軸がある。渡辺敏(はやし)先生直筆の書である。年号の記述はないが、74才とあるから数え年でいくと大正9年(1920)の揮毫となる。
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 そこには次のように書いてある。

 穿雲望雪上九垓 千紫萬紅錦作堆
 聞説山中無暦日 秋芳青艶一時開

 余上白馬山係明治十六事蓋登同山先
 鞭者也 大正六年再試登此時歳七十
 是亦老齢者先登者乎
    記恩為記念
      七十四叟雪窓居士敏


 漢詩は高山・白馬岳の様子を謳(うた)っている。読み下し大意をとってみると、
「雲(くも)を穿(うが)ち雪上(せつじょう)九垓(くがい)を望む」九垓は天の遠い果て、また幾重にも積まれた重なりの意。雲をつきぬけ雪の上の高く聳える山にやって来た。「千紫(せんし)萬紅(ばんこう)錦堆(にしきすい)を作(な)す」堆はうず高く盛り上がった様子であるから、木々また花々が種々様々に色をなしていて、錦が盛り上がったような山の風景である。「聞(きく)説(ならく)山(さん)中(ちゅう)暦(れき)日(じつ)無(な)しと」昔から人々が言っているように山中には日にちも時間もなく、ただ静かに日が照っているのみである。世俗の雑音とはかけ隔たった平穏な世界がひろがっている。――中国唐の隠者太上(だいじょう)が人に山の中での生活を聞かれると「山中暦日無し、寒尽くれども年を知らず」山の中にいれは暦(こよみ)の上の月日も関係ないし、寒気が去って春が来ても、その年が何年であるかも知る必要もないという故事からよく漢詩に引用される句である――。「秋芳(しゅうほう)青艶(せいえん)一時(いちじ)に開(ひら)く」秋芳、秋に咲く花々も、夏のつやつやした緑の植物も同時一緒に開いている。御存知のように高山では春も夏も秋も短い期間に一度に重なって過ぎ去ってしまう様子が描れている。

 七言絶句である。山に入って詩をつくる場合人生の有為無為の感慨を述べる人、深閑とした隔絶の世界を語る人などがあるが、高山の植物の様態をうたっている敏はやはり科学者の目を持って山に入っていることが伺える詩である。

 さて、その後が敏の最も語りたい事柄を注釈している。「わたしが白馬山系へ登ったのは明治16年 (1883)のことである。これは白馬岳の登頂の先鞭である」という。さらに「大正六年(1917)再び白馬岳に登った。この時七十歳である。老齢者の登山として初めての記録といえようか」と述べている。

 明治の初め頃までは白馬岳のような高山は猟師が獲物を追って山に入るか、修験者が修行と共に神霊に触れるために山に分け入るくらい、山は神聖なもので、一般者が立ち入ることは禁忌されていた。「岳山(たけやま)」に一般者が登ること「山荒し」をしたといわれ、神の祟(たた)りがあると畏れられていた。祟りは旱魃・冷害・悪疫流行などとなって表れる。だから山に入るものがあると村人は石を投げ棒切れを持って追いかけ山に入れさせなかった。ただ白馬山系には銀や銅あるいは硫黄などの鉱物が採れることでその開発或いは採掘・運搬のため多くの人が入った記録はあるが、これも関係者に限られている。

 明治に入って、参謀本部陸地測量部が地図作成のために測量を始め、白馬岳に登っていた。渡辺敏が登ったときには山頂近くにすでに測量小屋があった。白馬岳に三角点が据えられたのは明治26年(1893)である。

 自然の草木やその分布、地質鉱物について興味を持つ一般者として白馬岳(当時は大蓮華岳と言っていた)に登ったのは、渡辺敏らが最初である。今から30年程前までは本格的な登山として、白馬岳初登頂は日本アルプスを世界に紹介したウォルター・ウェストンであるとされていた。ところが昭和52年地元の郷土研究者長沢武氏が、明治12年(1879)から10年間北安曇郡長を務めた窪田畔夫(くろお)の日誌の中に白馬岳登頂の記録を発見したのである。窪田は筑摩郡和田村(現松本市)の出身で明治初期の自由民権運動の当地での先駆者でもある。北安曇郡長の後、長野県会議員となり、明治25年には衆議院議員を歴任するなど、先進的な知識人でもあり活動家であった。彼の自由民権運動に共鳴していた渡辺とは殊の外親交を深くし、白馬岳登山の挙行はその一つの出来事である。

 郡長の記録である「郡治日録」によるとこの白馬岳登頂一行は9名で成されている。窪田畔夫45才、渡辺敏36才をはじめ山案内人3人と、佐野の猟師田中兼二郎、北城小学校校長豊島三男人、教諭加納直寛などが参加している。明治16年8月19日二股から松川沿いに山の石質を見ながら登り、その日白馬尻下の岩屋に泊まる。20日は大雨で滞留、21日早朝出て、大雪渓の上で朝日を拝す。さらに尾根に出測量小屋にて昼食。そのあと頂上に立つ。22日下山、とある。

 ウェストンが鹿島槍山系に入ったのが明治26年、白馬岳(大蓮華岳)登頂が明治27年(1894)であるから、窪田、渡辺一行の登頂はそれより11年も前のことになる。

 渡辺敏は弘化4年(1847)岩代国(現福島県)の二本松の生まれである。150石取りの藩士浅岡家の出身であるが母方の渡辺家に養子に入る。渡辺家は代々藩校の教授の家柄。敏も藩校の教授として手伝う。養父は明治元年の戊辰の役で戦死。養母も明治6年に死亡すると敏は東京に出る決意をし東京師範学校師範科に入学する。

 ところで明治5年(1972)明治政府の方針に従って、当大町でも寺子屋を廃し学校が発足した。入徳館と称し校長には高遠藩士の長尾無墨を迎えての開校である。学問の内容は寺子屋と同じ論語に始る読み、書き、そろばんであった。入徳館の実質的な学校運営にたずさわっていた中村孝三は、早く本格的な小学校教育を始めたいと願っていた。しかし適当な指導者がいない。翌6年長尾無墨は県に召され県下の学校制度実施担当となる。残された指導者は若い。

 中村はこの若い指導者を松本の師範講習所に派遣し研修を受けさせ、ようやくにして明治7年漢学を止め、ことばと算数の掛軸を用い机・腰掛を備えた様式風の学校となった。

 学齢に達した者に入学をすすめると生徒は300人を超え、3人の教師では手がまわらなくなり、教手という助手を庸う。その担任の力に差があり、教え方のうまい・へたで生徒に差がつき、進学できる人、落第する人が出てくる。これではいけない、正式な資格を持った先生に来ていただき学問の質の底上げと教授術の向上をはからなくてはならぬという声が興った。

 その声を受けて中村孝三は7年冬上京する。神田錦町に旧松本藩士で吉武樗(おうち)という外国語学校の教師をしている人がいる。その人を頼り人選を依頼すると、「来年3月師範学校卒業生が10人いる。その中で成績のよい人を選ぼう」ということになった。「ところで」と吉武は言う。「卒業生が新規採用されると俸給は10円である。しかし信州大町という僻地へ行けというのは流刑に処せられたに等しい。どうだろうか。俸給を幾分増額しては」。このことはあらかじめ覚悟していたことであった。そこで「どうしても来ていただきたいので、あなたにお任せいたします」と答えた。吉武は「思い切って20円をくれたらどうかね」と言う。中村は腹の中で30円まではよいと思っていたので喜んで承知した。この経緯については、仁科学校の創立を語った中村孝三の「学びの糸ぐち」に詳しく書かれている。

 こうして迎えられたのが渡辺敏である。明治8年(1875)11月渡辺は大町へ赴任した。27歳のときである。

 大町には明治17年(1884)12月までの9年間、入徳館を改めた仁科学校訓導として在職した。この間、野外の自然観察や、夜学会と称して町民を集めて文化講演をするなど地域文化の向上に勤める外、窪田畔夫などのすすめる自由民権運動の奨匡社(しょうきょうしゃ)の設立に参加し、『幽石(ゆうこく)雑誌』の発刊に加わるなど啓蒙家として活動をしている。

 大町を辞して後一旦郷里の福島にもどるが1年半たらずで再び信州に戻り長野町(現長野市)の小学校校長になる。彼は長野に於いて就学奨励のための子守教育所設立のほか、遅進児のための学級、障害児のための学校、女子教育のための長野高等女学校、職業校としての長野工業学校の創設にあたるなど、信州教育の揺らん期において忘れることのできない活躍をしている。

 渡辺敏の信条は実学教育であった。すでに大町に在った若い時から実業教育を建議している。事実に則し、自分自身の体験によって論を立てるべきことの大切さを、繰り返し説いている。明治の初め、これからの日本は因習を打破し、科学の力によって国を興さなくてはならぬという信念に基づくものであった。虫倉山(中条村)の地すべりの跡から善光寺地震史を検証したり、北小谷の山田家のいろりの大きさから農村の社会的構造を論ずるなど郷土史にも通ずる他、植物学から農業の振興法を説き、農学の重要性を敷衍するなど学問の幅は広かった。登山、遠足、修学旅行を奨励したのもその実証主義の一環であった。

 渡辺の得意とするところは『一壜百験』と称し、フラスコに水を入れて気圧の変化を与え水を吹き上がらせる物理化学実験であった。幾種類もの色をそれぞれに入れた多くのフラスコをホースで繋いで、道路上にアーチ状につるし、1つのフラスコを操作すると、一斉に色水が吹き上がる実験を披露し、人々を驚かせた。渡辺は自分の名敏(はやし)をびんともじって、「これを渡辺壜という」と言って人々を笑わせた。

 さて掛軸にもどり、後半の大正六年(1917)の再登頂のことについてである。御歳70歳にして再登頂ということ、その気概壮健たるに先ず驚く。白馬岳は窪田・渡辺の登頂以後、明治27年のウェストン、同31年の河野齢蔵らの記録がある。わけても明治31年地元の松沢貞逸が白馬岳に登り、頂上近くの石室を改造して山小屋を作り、登山道も少々整備されると一般の登山も容易となって来ていた。

 渡辺敏の登った大正6年という年は、大町市木崎湖畔に今も続いている信濃木崎夏期大学の開設した年である。この大学の講座も現在なお伝統として引き継がれている。私はこの大学の第1回の白馬登山に参加したのではないかと推測した。登山隊の名簿は無い。一行が山頂で撮った集合写真があるので見るが不鮮明で顔の判別ができない。

 この登山の隊長は、高山植物研究の先駆河野齢蔵である。河野は後に「渡辺敏先生と登山」と題する追想文を書いている。その中に次のような内容がある。

 「先生は七十歳を超えて、再び或団体に加わって白馬登山をしたことがあった。此の際、登山前に、私は登山中の面倒を見てくれるように委嘱されたので、私は父に対するやうな考えを以て、お世話をして上げたことがあった。此の時の一笑話は、登山の第一日に、白馬尻の岩の下に宿ったが、私は先生の傍らに寝て一夜を明かしたところが、翌朝になって、先生が何か捜して居られるので、どうなさったかと尋ねると、氷砂糖が見えぬとのことであった。よく調べてみると、床に粗末な板が並べてあって、其の下に水が流れて居るので、先生の氷砂糖は、前夜板の間から渓流中に落ちて皆溶けてしまったのであった」。

 この文中「或団体」(傍点筆者)と言うのが、信濃木崎夏期大学ではあるまいか。大正5年長野女子高校の校長を辞め、悠々自適の生活に入った先生が翌6年の木崎夏期大学の開講に参加し、白馬登山隊に加わったものと解したい。

 こうして軸に書かれている70才の老齢者の先登の記録はつくられた。渡辺の得意満面の記述である。この記録も幾年か後に塗りかえられる。明治36年、仙台から長野へ赴任してきた志村烏嶺(うれい)という教師がいる。彼は山が好きで白馬岳へ13回も登ったという。最後の登頂は82歳だった。志村の生まれが明治7年だから、計算すると昭和31年のことになる。

 最後に「記恩の記念として」と書かれたことについて述べ、文をしめくくりたい。大正9年大町時代の教え子たちが相集い、大町小学校(現大町西小学校)に先生の頌徳碑を建てることになった。教え子の一人、軍医中将山本英忠が奔走して、時の海軍大将であり元帥であった東郷平八郎の書をいただき、教育者で昭和天皇の皇太子時代の教育にあたった杉浦重剛(じゅうごう)に撰文をしていただいた。書は男爵野村素介である。

 その頌徳碑(碑文には記恩碑とある)の除幕式が行われたのが大正10年5月8日である。渡辺敏は夫妻で招かれ式に参加している。このとき懇請されて揮毫した一幅が、我が家に伝わる掛軸であろう。

 大町に赴任した時にバイオリンを弾いて子供たちに体操をさせ、無口でいつも眠っているような目をし、口を開くとウーアーと訥弁(とつべん)で、しかも東北訛りのズーズー弁で話すから、町の人は変人だ、少し頭がおかしいのではと噂した。しかし「校長はいい先生だ」と噂を否定していったのは教え子達だったという。

 それは例えば、下駄の鼻緒が切れて困って昇降口でうろうろしている子がいる。通りかかった渡辺校長がだまってその前にしゃがみこみ、緒を立ててやり、ニャッとその子の頭をなでていってしまう。

 子供たちをつれて東の山へ行く。椎の実を見つけ子ども達は競って取って食べる。一人の小さな子が背が低く、取れないでいた子がいた。先生はだまって椎の実を取ってその小さな子に与える。一人ひとりに肌でふれる思いやりを与えていた。その時、椎の実を取っていただいた山本英忠は「私はそれを一生忘れません。此の事を口にしても筆にしても、そのたびごとに落涙してしまいます」と述懐していたという。

 渡辺敏の記恩碑は、今も大町西小学校の玄関の庭に立っている。



参考文献 「渡辺敏全集」渡辺敏全集刊行委員会
「渡辺敏先生伝」小林計一郎
「学びの糸ぐち」中村孝三
「沿革概要」信濃木崎夏期大学
「北アルプス夜話」長沢武



[メモ] 弘化4年(1847)二本松にて 渡辺敏生まれる
明治16年(1883) 白馬岳 登頂 窪田畔夫、渡辺敏 36才
明治26年(1893) 白馬岳 三角点 参謀本部陸地測量部
明治27年(1894) 白馬岳 登頂 ウェストン
大正6年(1917) 白馬岳 登頂 渡辺敏 70才2度目、河野齢蔵
昭和5年(1930) 現長野市にて 渡辺敏没83才