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2004年6月
講師紹介
荒井 和比古 先生
 
講演
『仁科氏の文化と大町の成立』 
− 大町の歴史探訪 −


『仁科氏の文化と大町の成立』
− 大町の歴史探訪 −

講師  荒井 和比古


はじめに

 どうも皆さんこんにちは。ただいまご紹介いただきました荒井和比古と申します。ちょっと自己紹介をさせていただきます。実は今ご紹介いただいた『大町の民話』(あづみ野児童文学会編)なのですが、ここに荒井泰三・絵と書いてありますが、私の弟が描いたものでございます。

 それからこちらの副読本『ふるさと きのう・きょう・あした わたしたちの大町』(大町市教育委員会発行)のなかに代表的な民話が42ページから3つ載っています。『泉の小太郎』、『湖の一本波』、『仁科七面』ですが、各々1ページに収めるために私が文章を書かせていただいて、挿絵は私の当時23歳の息子がコンピュータグラフィックで書いた挿絵で、この3ページは親子合作ということでございます。

 皆さん大変ご熱心な会と伺っておりまして、皆さんにお招きいただいた事を大変光栄に思っております。今日は、一生懸命務めますのでどうぞよろしくお願いいたします。実は内容と時間との勝負ですので、できるだけ時間の中に収めるようにしますが、少し小走りになるかもしれませんけれど大意だけお掴み頂ければと思います。

 

1.中世の文化財について

 

 ではレジメにしたがってお話を進めたいと思います。長野県・信州には、中世、いわゆる鎌倉・室町時代の文化財は多くありますが一番数が多い地域といいますと上田でございます。上田市の近くに塩田平というところがありますが、ここに鎌倉時代の寺が多くありまして、ここに入った北条氏が禅宗の中の、臨済宗の寺院を開いたので、その関係の文化財が多く残っております。

 その次に鎌倉・室町時代の文化財が多く残っている地域はこの大町地域でして、こんな寒い山の中の僻地なのですが、割りに多く文化財が残っております。それは平安時代末からこの地に居りました仁科氏、いわゆる地方豪族がもたらした文化財だと言えます。今日はなぜ仁科氏がそんな力を持っていたのか、仁科氏とは何者なのかという話と、大町という町がどのようにして出来たのかと言う話をさせていただきます。

 ご存知のように大町という言い方は、北陸のほうへ行きますと町の真ん中にありまして、東京では銀座、名古屋では栄町と言うように、大町という言い方は町の真ん中の一番栄えた所という意味があります。ですからここの大町とは仁科という地域の一番栄えた所と言うことができまして、これを作ったのが仁科氏だという話もしてみたいと思います。

 

2.歴史に見る仁科氏の概略

 

日本史に現れる仁科氏

 この仁科氏は、戦国時代の終わりには滅亡したことになっておりまして、子孫は方々に散らばって居りますが、正統は途絶えております。仁科氏という名前は日本の歴史いわゆる通史には2回顔を出しております。ここに持って来たのは小学館の『大系日本の歴史』という本です。ここに載っておりますが、源平合戦、平氏を源氏が追討するという戦いで、源氏で真っ先に旗揚げをしたのが木曾義仲でして、その軍勢の中に「仁科盛家」という人がいまして、こんな風に書かれています。

史料に表れる仁科氏の人々
(平安末期-鎌倉期-室町期-戦国期)

・仁科盛家
・仏母尼
・仁科盛遠
・仁科康盛
・仁科次郎三郎
・仁科氏重
・平家女
・比丘妙法
・仁科盛宗
・仁科盛澄
・仁科兵庫助
・仁科右馬助
・仁科盛国
・仁科盛忠
・仁科盛房
・仁科持盛
・仁科盛直
・仁科明盛
・仁科盛国
・仁科盛能
・仁科盛康
・仁科盛政
・仁科盛信

「義仲にとって誠に不本意な入京となってしまった。京は数年来の飢饉で目を覆うばかりに荒れていた上、勝に乗じて上洛した軍勢には兵糧米の備えがなかった。京近辺の田畠は刈り取られ、京中の人屋在家は追捕され、田舎からの運上物は押し取られるという略奪が続いた。その責任はあげて京中の守護を命ぜられた義仲に求められたのだが、義仲の軍隊は寄せ集めで、全く指揮・統制がとれていなかった。この時の守護に命じられた中に、美濃源氏光長、尾張源氏の高田重家、泉重忠、甲斐源氏安田義定、信濃源氏村上信国、信濃平氏仁科盛家・・・」

 ここの所に名前がでているわけです。それでこういう人たちはばらばらで、ゲリラ戦は得意だったけれども統治能力は無くて、後から来る源頼朝の軍に攻められて、散りじりになってしまうわけです。

 2番目には、やはり鎌倉時代の中ごろに、御鳥羽上皇が北条氏を押さえようとして「承久の乱」を起こしまして、御鳥羽上皇側と幕府側が対立をしました。上皇側が北条氏を討ち取ってもう一度天皇の勢力を回復しようとしたのですが、このとき呼びかけに応じた者の中に仁科盛家の息子と考えられている仁科盛遠という人がいまして、この人のことがここの所に書いてあります。

 ところで、この盛遠という人は実は承久の乱が始まった原因の一人だということで、古文書の『承久記』に書いてあるのです。手短に読んでみますと、仁科盛家と、盛遠が熊野にお参りをします。そこに御鳥羽上皇の駕籠が通りかかり、上皇がおまえは誰だというので実はこれこれの者だというと、上皇が私に仕えないかという事で、息子の盛遠が西面の武士に取り立てられて、上皇の側近になったわけです。それを聞いた鎌倉の北条義時は、鎌倉から認められてこの地を治めているものが、後鳥羽上皇の警護に着くなどとはけしからんとして、仁科氏の荘園が没収されたわけです。これを聞いた後鳥羽上皇は怒りまして、頼朝を征夷大将軍にしたのはこの私なのに、私のやることを批判するのは許せないということで、側近の武士達を集めて反鎌倉の行動を起こす訳です。

 ところが、結局これも寄せ集めでばらばらの軍隊であったということがここに書いてあります。富山県と石川県の境に砺波山という山がありますが、そこで鎌倉の軍勢にやられて、仁科氏は死んだとは書いてないのですが、幕府方の文書には討ち取ったとなっています。そこで仁科盛遠は亡くなってしまったことになる訳です。こんな風に、日本の歴史には出てくるのですが、この後は中央の歴史には顔を出していません。

 

史料に現われる仁科氏の人々

 資料にあります仁科氏の人々は、仁科盛家、その次の仏母尼というのは盛家の奥さんでして、高野山の塔頭の中に遍照光院というお寺があります。これを作られたのが仏母尼で仁科盛家が亡くなったのを弔らうためのもので、阿弥陀如来像が奉られ、今でもお寺は続いています。

 次が仁科康盛で、当地に日本でいちばん古い鎌倉時代の鉄製の鰐口が残されていまして、年号が入ったものでは日本で最古のものです。副読本31ページに、写真がありますが、安貞2年(1228)、仁科康盛がおさめたものと書かれています。

 仁科盛家のことについてもう少し詳しく言いますと、先ほど源平の合戦で木曽の義仲に付いて行って負けてしまったといいました。大町の東隣に八坂村がありまして、そこの藤尾の覚音寺という寺に写真にあるようなすばらしい千手観音があります(副読本31ページ)。重要文化財にもなっているのですが、それは盛家が作って納めたものです。平安時代の仏像は中をえぐってありまして、その中にお経を入れたり,鏡を入れたりといろいろなものを入れるのです。この千手観音の体内には木札が入っておりまして大体80cm位でしょうか、そこにこの像はどういう由来で作ったかという事が書かれています。その木札には、仁科盛家と、奥さんの大伴氏と子供達が作っておさめたということが書かれています。これは平安時代の終わり治承3年(1179)に一族が安泰と子孫の繁栄を願って納めたとかかれています。

 この仏像について、遍照光院のお坊さんたちと話をしていましたら、あの仏像はとても地方で作れる御像ではない、京造り(みやこづくり)だろうといわれました。本当に綺麗な仏像です。こちらにもいくつか仏像がございますが、田舎造りで大変ごっついものです。できれば一度実物を見ると納得をするのですが、見られないので残念です。この両脇に持国天と多聞天がありますが、これは鎌倉時代に入ってから作られたものですが、首のところに仁科と書いてありまして仁科氏が納めたものに間違いがありません。これも仁科氏の文化のひとつです。

 後は、仁科康盛、次郎三郎、と色々書いてありますが,鎌倉時代はレジメの一列目の平家女、比丘(びく)妙法までで、比丘妙法は午後から見る仁科神明宮に納めてある御正体、いわゆる懸仏のところに名前があります。

 この次の列の、仁科盛宗からは南北朝の戦いの中で出ている名前です。どちらかというと後醍醐天皇の南朝の方に付いていまして、足利尊氏と敵対関係にあり、北朝の側と戦をした者の中に盛宗とひとつ飛ばして兵庫助、右馬助などが出てきます。次の仁科盛国というのが居りますが、ここから以下は盛忠をのぞいて、仁科神明宮の棟札に、最後の盛信まで名前が書かれています。

 最後から二番目の仁科盛政とその前の仁科盛康というのは,川中島の戦いの時に、武田側について上杉謙信と戦うわけですが、とうとう盛政が甲州に連れてゆかれ武田方に切腹をさせられてしまいます。ところが武田信玄はその後へ自分の息子の五男に仁科氏のあとを継がせ、仁科五郎盛信としてこの地を治めさせました。盛信は武田方で一緒に戦うのですが、天正10年(1582)、織田信長方の軍勢に攻められて、高遠の城で亡くなってしまうのです。ここで仁科氏の血脈が絶えてしまうことになるのです。しかし盛信までの足跡はいろいろな形で残っておりまして、午後に見ることができると思います。

 

3.仁科氏の出自について

 

奥州安倍氏との関係

 さて、こういう事で仁科氏とは、こんな活躍をしているのは何者なのだろうということで3番目「仁科氏の出自」に入ろうと思います。


「湖の一本波」
『ふるさと きのう・きょう・あした−わたしたちの大町』より

 従来からこの仁科氏のことについて、地元の人達の間では,江戸時代から明治、最近の昭和の始めまではこれは奥州の安倍氏の子孫だろうと言われてきました。今日一番最後に見る森城址の裏に阿部神社というお宮がございます。さっきの副読本の43ページに「湖の一本波」という民話がありますが、これに阿部の五郎丸という人が出てきます。ちょっと読みますと、
「承久の昔のこと,北条氏を討とうとして兵を上げた仁科盛遠は、越中の礪波山に破れてしまった。木崎湖のほとりの森城には、北条氏の家来の、野谷(こうのや)という人が入った。その時、奥州の阿部貞任の子孫阿部五郎丸が来て、野谷をやぶって森城主となり、仁科の地を治めた。五郎丸の政治は人々を苦しめた。鎌倉からの討手も平らげ、ますますおごり高ぶった。その時、木曽義仲の子原信濃守義重が来て、五郎丸を攻め、森城をとりかこんだ。さすがの五郎丸も防ぎきれず、夜明けに一人で湖の底をもぐって脱出した。もぐって逃げる湖の上に一筋の波が立った。これを見て、五郎丸の日ごろかわいがっていた犬と鶏が主人の跡を追った。」

 五郎丸は犬と鶏が後を追っかけたものですからばれてしまって、対岸の岸に「阿部っ渡」という所があるのですが、そこへ上がった所を捕られて殺されたのです。森の部落の人たちはそれから鶏と犬を飼わなくなった(笑い)。不思議なことですが鶏や犬がいない村がある、今はどうなっているのでしょうね。これは民話ですけれど、阿部五郎丸という名が出て来ているわけです。そこで仁科氏は安倍氏の子孫だ、奥州でやられてこちらに逃げてきた、安倍貞任が祖先だ、という伝説があるのです。それがいろんな江戸時代の書物や、明治の書物に書かれています。

 

阿倍氏

 ところが、つい10年程前にお亡くなりになった歴史の大家で一志茂樹先生という方が居られました。一志という姓は、伊勢の三重県に一志郡というのがございますが、伊勢の近くの出身でございます。さっき仁科神明宮があると申しましたが仁科神明宮は伊勢の親戚で伊勢神宮と同じ神明造をしています。この地は仁科の御厨といいまして、伊勢神宮の荘園なのです。だから伊勢から関さん、一志さんなどがお宮と共に大勢来ておりました。その子孫のお一人が、一志先生で、先生はこの話はまったく違うよ、奥州の安倍貞任では無いと言われたのです。

 アベはアベでも奥州の安倍貞任は安い倍と書きますが、ここのアベはこざと偏に可を書いた阿に、人偏のべと書いて阿倍である。実は阿倍の祖先はずっと歴史を古くさかのぼっていわゆる蝦夷平定の時代になるのです。この時代、四道将軍がおかれ大和朝廷が我が国を統一したときに北陸道に大彦の命を遣わし、東海道のほうは大彦の命の息子を遣わして、北のほうの蝦夷に対したわけです。阿倍氏というのは、大彦の命の子孫が作ったことになっていて、本拠地は奈良県の桜井市に阿倍村という村があってそこが出身なのです。この村には、大彦の命の一番の元がありまして、大彦の命の子孫のどなたかがこちらに来られたという事です。

 それには、いくつかの理由を上げておりまして、ひとつ大きな理由というのは、大町市の北に小谷村という村がありまして、小谷村と越後との境にある大峠が、御坂峠ではなくて三の坂、三坂峠と書かれた古文書が15年程前に発見されたのです。ミサカというのは古代の律令制度の時代の官道でして、公の道、今でいう国道なのです。この辺で有名なのは木曽の御坂峠で、中央道に御坂トンネルというのがありますが木曽と美濃を分ける峠で、東山道が通っていて、諏訪から碓氷峠に向かう大きな官道が通っていたのです。

 この地にも三の坂と書いた三坂峠があったということは、官道があったに違いない。東山道のような大きな官道ではないにしろ、京都に直結する官道があったことになります。だから誰かこちらのほうに入った人達がいて、その人たちの通う道だったのではないか。そんな風に考えられます。先ほどから話に出ている、仁科盛家という人からはじまって、盛遠、それから南北朝のころの仁科氏は反幕府、反武士でして、早く言えば朝廷側に付いている事の方が多いのです。

 しかし時代の流れは武士のほうに向いています。武士の勢いがだんだん強くなっているのに、反幕府、反武士の立場を貫くのです。ですからどの戦いも、全部勝った側に居たためしがない(笑い)。これはいったい何なのだろうかと考えてみますと、朝廷に特別の繋がりがあったのではなかろうか。先の承久の乱のときに、御鳥羽上皇にすぐに召抱えられたということが承久記に書いてあるわけなのですが、きっと何かがあってすぐに召抱えられたのに違いないと思うのです。ですからいつも向いているのは鎌倉とか武士たちの方ではなくって京の方を向いているわけです。先ほどから言っている覚音寺の千手観音像にも京作りといって、京の風流が入っている。これからいくつか見学する、仁科氏の本拠になる大町市の社地区には、いろんな地名だとか寺の名前に京都風の名前を付けていることが多いのです。例えば常光寺、北野神社、もっと南のほうでは木舟という集落があって木舟(貴船)神社があるという風にいくつかの京都風の名前がついています。

 ですから、奥州の安倍ではなくて朝廷との関係がある氏族がこちらに来ていると言うのです。では何故こんな山の中に来たのだろうかということですが、先ほど言った大彦の命の阿倍氏が日本史の中で果たした大きな役割というのは北陸道の蝦夷との戦いで蝦夷を北に追いやる仕事で、大和朝廷の力を北のほうに伸ばしていったということがあげられます。もちろん東海道のほうからも日本武尊などがありますが。

 最近、高橋克彦さんという東北の歴史書を書いた「火怨」という小説がありますが,これは東北のほうの阿(あ)弖(て)流(る)為(い)という人が大和朝廷と如何に戦ったかいうもので、私も仁科氏もアンチ時勢派ですから(笑い)。東北から大和朝廷を見て悔しいなあというような本は大変興味があるのです。

 平安時代に東海道から蝦夷に攻め上るよりも、北陸道のほうが早く蝦夷に行けますね。ですから奈良から平安の初めに、蝦夷を向こうに追いやるために、こちらから食料や軍隊を送ったりするための後方支援の場所としてこの地が大きな役割をしていたと考えられます。この役割を阿倍氏が代々担っていたわけで、その一族がこちらの方へ来て地方のほうに進出をする拠点を作ったのではないかというのです。

 ここに木崎湖の木崎と言う地名がありますが、拠点を作るたびに何々の柵(き)というのを作ります。磐船(いわふね)の柵、淳足(ぬたり)の柵などのように,昔の大和朝廷が出て行く拠点というのは、柵を廻らして城を作るわけです。そこを中心としてだんだん進出をしてゆくわけで、出羽の国、秋田県のほうまで柵があるわけです。木崎の木はやはりひとつの柵(き)、城であったのだろうと思われます。今日は最後にそこを見ますが、城の周りには、杭田とか元杭田という地名が残っていますが、昔は杭があって柵が残っていたのだろうと思います。そばに阿部神社もありますが、ここを拠点にして、阿倍氏が後方支援をしたのではなかろうかというのが一志先生の説であります。

 

4.仁科氏の経済的基盤


仁科御厨と仁科の庄

 こういうような活躍をした経済的な基盤はいったい何であるかと言うと、ひとつは仁科御厨、伊勢神宮の荘園であり、いつ頃この荘園が出来たかと言うことについてはいくつかの意見がありますが、記録があるのは平安時代の終わり鎌倉幕府ができる4年程前に仁科御厨という名前が出てきます。もうひとつの記録としては1306年に仁科庄という荘園があったとされています。それは木崎湖から南のほうへ出てゆく農具川という川がありますが、その周辺であったろうと思われています。

 木崎と大町の間に借馬という集落がありますが、そこの少し東のほうを発掘をしたらそれ以前の集落、弥生時代から平安時代の始まりの集落が見つかりました。そこが後に仁科庄になっていく所だろうと思われます。この仁科庄の鎮守の神というのは、午後から見学をする若一王子神社であろうと思われています。この若一王子神社と仁科庄ができたのは、先ほどの一志先生によれば、鎌倉時代の初め頃だろうと推測をして書いております。

 

焼かれた仏像

 けれども、今から8年程前にすごいものが発見されまして、若一王子神社の三重の塔の中に焼けた木が放り投げてあったのです。この焼けた木を合わせて見ると、実は仏像でして、神社に仏像がというと、昔の神仏混合の頃の古い形式なわけです。この仏像は首から上が切ってあり、頭の上のところに十一面があり、十一面の化仏だけは、飯島さんという大工さんが持っていたのです。明治の初め頃この大工のお父さんがこれを持っていて、家に大事にしてあったのです。それを合わせて色々鑑定をした結果、さっきの藤尾の観音様よりもっと古い11世紀の仏像という鑑定が下ったのです。これは大変ごつく節もごつごつしているし、平安時代の11世紀、貞観仏の終わりの頃の形式にいくつか似ているのです。

 何故そんな焼けぼっ杭が出てきたかというと、松本地方は明治の初め頃に廃仏毀釈というのが激しい所で、王子神社は神社の横に観音堂がありまして、いわゆる神仏混合だけれども仏様のほうは捨ててしまいなさいという上の命令がでたのです。そこで松本藩が、松本藩と言うのは特に廃仏毀釈が激しくて、最後の戸田光則という藩主は、これを忠実に行ってそして明治天皇の側に忠誠を示したというのです。そのときに王子神社の側で王子神社を大事にするために、そこに付属している仏教関係のものを、火をつけて焼いたのだろうと、これは推測ですけれど。  

 言い伝えでは大町にたいへん気の狂った方がいて仏像を担ぎ出して火をつけて焼いたのだと伝えられていますが、神社を守るために燃やしたのではなかろうかと思いますし、そうでもして忠誠を示さないとどこの神社でもつぶされてしまいましたから。その後廃仏毀釈はなくなったので、かろうじて三重の塔が残り、観音堂がこれは江戸時代中ごろの建築物ですが、残っているは本尊を焼くということで難を免れたのではないかと言うことです。

 そうすると11世紀ということは、先ほどの一志先生は鎌倉のころであろうと言われていましたが、鎌倉は13世紀から14世紀ですから、それよりももっと古い時代から仁科庄は開けていたのではないかと、現在は考えられるようになったわけです。

 

5.仁科氏の居館と周辺の配置 (地図参照 23頁)

 次に5番「仁科氏の居館と周辺の配置」のほうに参ります。仁科庄と仁科御厨で経済的基盤を作り、仁科の神明宮、藤尾の観音などまだいくつかの文化財をもたらした仁科氏と言うのは、大町の社地区の台地上に居りました。歴史の研究では従来から田んぼの収量がどのくらいあったか,米がどのくらい取れたかということで経済力を調べますが、鎌倉時代の終わり頃になりますと、ずいぶんとそれが変わってきます。どちらかというと商業を中心に収入を得てきている。いわゆる今で言う消費税のような、商売で流通する物資に対して課税をする、さらに流入する物資に対して関所で課税をする関銭といったことが大きな収入になったようです。

 ここのところには糸魚川から松本のほうへ行く大きな街道、いわゆる塩の道というのがございます。海産物と山の物が交流をする道、それが通っているのです。この道が社地区の段丘上を通っていますけれども、そこは開発が進んでいて土地が少ない、そこで段丘下の王子神社を中心にした辺に市を立ててそこから収入を得るというようなことを考えて、現在の市街地の開発が進められたと考えられています。

 レジメの一番終わりのところに『仁科大町の成立』という地図がありますね。少し濃く書いてあるのが当時あったであろう街道を想定して書いてあります。今の塩の道というのはこの北から一番まっすぐ来てここで鍵の手になって曲って南のほうに進む、これが塩の道、千国道というものです。この辺に市が立っていたのです。少し色が薄くなっている線がありますが河川で大町の地理はというと鹿島川の扇状地です。前の地図では鹿島川がこう流れていて高瀬川がこちらから流れて、南のほうは高瀬川の扇状地、北のほうは鹿島川の扇状地というまさに氾濫原で出来ていますね。とても人が住めるようなところではありません。

 つい最近までは梅雨の終わりの大雨が降ると、鹿島川が氾濫をしてそこの堤防が破れると、大町は水浸しになってしまう。私もまだ高校生の頃、親父の留守をしていた頃、お前が代わりに行って来いと言われ、堤防の水止めに行きました。石を運んで蛇籠を作って、堤防が壊れて水がこっちに来ないようにするのです。そこまで歩いてゆくのに8キロ約2里雨の中を歩いた記憶があります。今はもうあそこに砂防ダムや堤防・水門などが造られ、また大町ダムが出来たりして水が調整されてそういう心配がなくなりました。ダムができる前は洪水というのはよくあったのです。大町付近でいくつか発掘をしても下の方まで河原の砂地で何も出てこないのです。

 ここに町川という川、それから御所川という川が少し薄い線で書いてありますが、鎌倉時代の終わりから南北朝にかけてこの町を作るときに洪水が起きないように水を制御し町作りをした様子が地図の上からはっきり見られます。町川は王子神社の前を通って町の真ん中を流れここを抜けて農具川に流れています。これは町の用水、生活用水で今も使っています。それからもう一つ、仁科大町の成立という表題のところから流れている御所川という川は、北原古城趾、それから天正寺居館趾に注ぐ堀の水です。こういうふうに水を制御して水が必要なお堀の水や生活用水に使って荒れるのを防いで、町作りをしたのですね。

 北原古城趾、それから天正寺居館趾を発掘をしてみると室町時代頃の遺物が数多く出てくるのです。天正寺居館趾からは宋銭、鎌倉の終わり頃から室町にかけて使われた中国のお金ですね。日本のお金を使うようになったのは江戸時代からで、それまでは大体中国からのお金を流通に使っていたのです。

 大町の六日町、九日町は昔、市が立ったところで、九日に市が立つから九日町といいます。六日町と九日町の合わさり目にいま長野銀行がありますが、あの銀行を立てるために発掘をしましたところ、宋銭がたくさん約1000枚以上でてきました。天正寺居館趾の方は、50枚ぐらい出てきました。たぶん室町の頃からだと思いますがここに銭を使った市が立っていたという証拠が出てきました。

 ここに中町というのがありますが、ここが大町という地名の元です。最初に中町、八日町、五日町という鍵の手の市の町を作り、それから城下町として天正寺居館趾を中心として町作りをしたのです。大町の町は四角くなっていまして、歩きますと道が直角になっていますが、これも京都に大変似ていて、一区画がおよそ70間で7間ごとに横に地割をして、表の方は7間、奥に70間という短冊形の地割をしてあるのです。これが今でも続いていて基本的にはこの地割が個人の土地として台帳に残っているのです。そんな町の様子を見ても計画的な町作りが、南北朝から室町の時代に行なわれたと考えられます。

 いろいろ飛ばし飛ばしお話をしましたが、後は現地で10分か15分程度しか時間はありませんが、そこでお話させていただくとして、これで総論の部分は終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

 《講演時間1時間6分》

 

質疑応答 

質問1  仁科三湖という言葉がありますが、単にこの付近を仁科氏が治めていたと言うことだけなのでしょうか。
解説1

 仁科の名前のことを言わなければならないのですが、この地域に来た武士だから仁科氏を名乗ったということです。これは棟札にもありますし、藤尾の観音様の胎内にもありますが、これは皆平氏なのです。この平氏が平氏でいながらなぜ朝廷側につくかと言いますと、平氏と言ってもいろいろ在りまして伊勢平氏だと思っております。

 仁科と言うのはこの地域の地名なのです。仁科の仁と言うのは丹(注;赤い色の意)の意味で、仁科氏の入った社地区を見ると、第三紀層の赤土で今日のように雨が降るとどろどろになってしまうのです。仁科の科は、丘と言う意味がありまして、したがって仁科と言うのは赤みがかった丘のある地域と言う意味があります。その前は、和名抄の頃、いわゆる律令制度のころは、この辺りは村上の郷と言う名前で呼ばれていました。そのあと推測では阿倍氏が入ってこの地にずっと根付いたから仁科の人、仁科と言う姓に代わったのだと思います。

質問2  以前に本で呼んだ知識で間違っているかもしれませんが、一つは武田と織田が高遠城で戦をしました、そのときのエピソードがありましたらお願いします。二つ目は徳川の時代になってからも仁科氏が会津の領主になっていた頃があるのではないかと思います。徳川時代の仁科氏とどういう関係にあったかと言うことです。三つ目がさっきありましたが安部氏の末裔ということで、安倍氏と言うのはアイヌの血が混じっていると言う話がありますが、その辺のことをお話ください。
解説2

 始めの高遠のことですが、織田の勢力が信州に入ってくるその先鋒を担いだ人が織田信忠という人です。これが伊那から天正10年(1582)に入ってきます。武田の御大将は、もう信玄が亡くなっていますから武田勝頼で、五郎盛信の兄になるわけです。五郎盛信が高遠城で織田軍を防ぐためにこちらの軍勢を連れてゆくのですが、織田の軍勢にはかなわなくて討ち死にをしてしまうわけです。地元では仁科五郎盛信がここの場所で死んだとか、エピソードはあります。最後に五郎が死ぬときに何をどこに埋めたとか、高遠には五郎山という山もありますし、そのときに仁科の家来達もだいぶ亡くなったようです。

 実は仁科氏について一族郎党と言うのは非常に多く広がっていまして、私たちの歌っている「信濃の国」には仁科の五郎の信盛はとありますが、正式には盛信なのですが、その前の武田信玄に切腹させられた盛政が武田信玄に忠誠を誓った起請文というのがあるのです。それが小県の塩田平に生島足島神社というのが在るのですが、そこに起請文が投げ込まれていたのです。それが今も残っておりまして重要文化財になっています。仁科氏の一族が武田信玄に異心無きを誓うと書いてあり、熊野権現の呪文やら、からすの飛んでいる紋の入った紙に書いてあるものです。それを見ると一族郎党の中に、堀金平大夫、古厩平三、渋田見源介、穂高左京亮、等々力豊前守、野口尾張守、それから北のほうに行って沢渡氏とその頃の武士たちが自分達のいた地名を名乗っているのです。堀金と言うのは松本の少し北に、古厩と言うのは穂高の北、北穂高の所に地名があります。渋田見というのは池田町の南に、沢渡と言うのは青木湖の北の神城の地域に地名があります。つまりこの辺一帯の人たちが仁科氏の親戚・被官になっているわけです。そういう風にして、仁科氏の血統と言うのは広がっていますから、仁科五郎盛信が死んでも血統が絶えたかと言うと一番の中心になる者が絶えただけで、一族郎党は残っています。一部は上杉の側にも入って、上杉は関東のほうで徳川幕府からも認められていました。あるいは米沢にも仁科の血の混じっている人たちがいたと言われ、米沢のほう仁科氏に関わるものが残っています。

 私が子孫だと言う人は方々にもいまして(笑い)、先の沢渡氏というのは一族になるのか被官になるのか判りませんが、仁科神明宮と同じ神明宮を自分の領地に建て、この神明宮も重要文化財になっています。この沢渡氏は小笠原氏に仕えて、小笠原と仁科は仲が悪かったのですが、仁科氏が滅びた後、小笠原に付いて九州の中津のほうに行き、そこに子孫にあたる方がいるようです。この方は仁科氏の系図を持っていまして、私が白馬の中学で奉職をしているときに、子孫と名乗る方が東京の富岡八幡宮の宮司さんをなさっておりました。一度会いましたら私は沢渡と言いまして、仁科氏の一族郎党でその子孫ですと言われました。その方が仁科氏にかかわる巻物を持って来てその系図を見せてくれました。そういう方が他にも居られるようです。

 仁科庄という荘園が、伊豆の堂ヶ島にありまして、これが仁科と関係あるのかというと良く判りません。私が若い頃、伊豆の仁科庄に行きまして、私は仁科の御厨から来たけれど何か関係が在りますかとそこの教育長に聞きましたら、ここは豊臣が北条攻めのときに伊豆から上陸してきて村々を全て焼き尽くしてので、古いもの中世以前のものは何も残っていないと言う話をされました。事実その教育長さんは苦労されて西伊豆町の町史を4、5年前に作られたのですが、そこには中世の部分がすっかり欠落しています。
  お茶をやっている方は、山田宗偏をご存知かと思いますがこの方も仁科氏と関係があるということです。

 もう一つの質問ですが、安倍の宗任が奥州で殺されてしまい、その子の貞任が京都に連れてゆかれます。一度伊予の国に流されてまた京都に戻されますが、そこで亡くなっていますから貞任がここに来るなんていうことは無いということは歴史の上からもはっきりしています。ただその一族が来たのかという事は判りません。私もここの所にアイヌの地名が在るかといろいろ探しましたが、一切アイヌの気配はございません。アイヌの気配があるのは、福島県から北のほうに見られて、そこでは地名にしても言葉にしても昔のアイヌの人たちの使っていたものが残っていますね。この仁科氏という一時期にここを治めている人がアイヌの一族の残りだったら、もっといろいろとアイヌの気配があっていいのではないかと思います。

 さっき話しました、大彦の命の阿倍氏は奥州とは違う系統の阿倍氏のようです。海ノ口の所に鍛冶屋敷という地名が山際にありますが、仁科の神明宮の棟札の所に鍛冶屋の名前が書いてあり、鍛冶屋は誰だと言うとそれは安部氏を名乗っているのです。今大町の中に阿部の姓はありません。ところが室町時代の中期の頃には安部姓があって鍛冶屋をやっているのです。そこで鍛冶屋と海ノ口の鍛冶屋敷には何か関係があるとにらんでいます。阿部っ渡と言う地名、阿部っ渡の「渡」はどういう意味かと言うと阿部の人たちの入り口、あるいは「曲がりっと」と言うように場所を示すのに「と」という言い方をしました。ですからそこに阿倍の一族が居たのではないかと私は思っています。今はまったく海ノ口に安部さんと言う方は居ませんね、散りじりばらばらになったのではないかと思います。それらよりアイヌとの東北との関係は否定して考えた方がよいのではないかと思います。

記録 23期 望月 高明

 


付属資料 (当日の配布資料から抜粋したものです。)

大町市と周辺の史跡等
史料に表れる仁科氏の人々
仁科神明宮
仁科の大町の成立
大町市の文化財に関わる略年表


副読本 (当日、購入・使用したものです。)

『ふるさと きのう・きょう・あした−わたしたちの大町−』
(大町市教育委員会発行)


参考文献

『大町の民話』(あづみ野児童文学会編)郷土出版社
『大系日本の歴史』シリーズ小学館