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1997年10月4日
講演
「黒部最後の職漁者 曽根原文平氏は語る」

「黒部最後の職漁者 曽根原文平氏は語る」

曽根原 文平


皆さん、こんにちは。曽根原文平です。今日は黒部の魚釣りの話ということで、私がそ こで職漁者として入ったときの話をいたしますので、よろしくお願いします。

私はいまご紹介にあずかりましたとおり引揚者でございます。昭和21年8月16日に ハルピンを発って55日で大町へ帰ってきましたが、生まれた家に長兄が後をとっておっ て、半分百姓やりながら勤め人やっとったから、食料はありまして、そこにいちおう転が り込んで親子3人で暮らしたわけなんです。非常にいい兄貴で、何もいわなんで私のめん どうを見てくれました。それで、一冬暮れまして、兄貴の家にいても、兄貴の子供もたく さんおりましたから、なかなかたいへんでございました。それで、生まれた家の商売上、 蚕を飼った蚕室(さんしつ)がありまして、そっちでこれからひとりで暮らすから、とい うことで別れまして、3月からそちらで暮らしたわけです。暮らすといっても職は奪われ、 財産はとられ、引き上げるときはひとり2千円しか持ってきてはいけない、あるいは満州 のほうから、日本へは2千円しか持って行かれないよといわれて、佐世保へ上陸したとき はいくら持っとっても2千円しか換金してくれなかったわけです。

それで、6千円という金を持って大町へ来たわけですが、それも遊んでいれば食いつぶ してしまうし、さて何で生活しようかということが、一番最初に浮かんでくることです。 当時、ヤミっていっておりましたが、担ぎ屋ですが、米を持って都会へ行くとか、あるい は卵を運ぶとか、あずきを運ぶとか、田舎の産物を都会へ持っていって、マージンをとっ て、帰ってきて生活をする、というようなことを見よう見まね、友達から教わりながらや っとったんです。あれは長野県から出るところで検査があって、たまには没収されるわけ ですが、一回没収されると元金も無くなってしまうわけなんですね。だから、そんなとき、 仕入れる金もない。米一斗も持っていって売って、マージンで暮らすんだから、売ったお 金は持って帰ってきてまた買って行かにゃならん。それを没収されると、元も子もないと いうことなんですが、私も没収されたことがあります。こんなことやっとっては、とても 商売になりません。

そうこうしているときに、私の2番目の兄が近くで商売しておりまして、「お前なにか 商売やらんか」と言われた。いろいろアドバイス受けてやりました。古着屋みたいなこと をやったり、骨董品を買ってみたり、いろいろやるけれど、やっぱ、根っからの商売人で はありませんから、儲けるというところへはいかなかったです。それで、皆さんは、終戦 のときは子供だったんだろうと思いますが、職は満州にあったから、日本に帰ってくると 職がないわけですね。戦争には負けたし、職はない、財産はない、商売もできない、どう しようかと……。それで、虚無的になって来たわけですね。

それを2番目の兄が見かねて、5月頃、「お前、魚釣りに連れて行ってやるが、行って みないか」と言われました。この兄は魚釣りが好きで、商売のかたわら、よく行っており ました。私がまだ昭和8、9年の内地にいる時分に、彼は子供があって商売やってるから、 奥さんに魚釣りには子供連れて行けって言われましてね。それでその子供を川端の木なん かに縛り付けて、それで釣っとったんですが、それを私に面倒を見ろと、付いていったこ とがあります。そのくらい、魚釣りが好きな人だったんです。いまの鹿島の大谷原という ところがございますが、あそこは大冷沢(おおつべたさわ)と大川沢が合流する広い原で す。大冷のほうへ、これは鹿島岳へ登った人達はご存じですが、鹿島へ登るときは大冷を 上がっていくわけなんですが、そこへ行って広い河原ですから、木も何もないんです。真 ん中に川が流れておって、淵があって、「ここでお前釣れ」と。仕掛けも全部してもらっ て、最初から、毛針だったんです。「針をその水面の上にばっと投げて浮かしておけば、 下から魚が飛びつくで、それを引っかけろ」。まあ、それ以上の難しいことは教えるほう も教えられないわけですよね。「俺は上へ行って来るから、お前は後から付いてこい」。 それで、言われたとおりぽんと投げたら、その底の見える1メートル50も2メートルも あるような底からイワナが上がってきて飛びつくわけなんですね。それゃあ、びっくりし ましてね。こんなところに魚がいるかと思うようなところで、底から出てくるのはわから なかったが、針のところを見とったら、針のところに飛びついたんです。いやこれはおも しろいと思いました。いやその魚は引っかからなかったですが。もちろん、飛びついてく る魚は見たけど竿を上げることができないわけですね。2度も3度も出るけれども、もう そのときは針は食わないから。ま、とにかく何回も出るからそこに頑張っておった。30 分ぐらいしたら、兄が見かねて下りてきまして、「お前そんなとこでいつまでもやってん じゃない。いっぺん逃げて釣りそこなった魚は釣れないんだ。毛針ってものは足で釣るん だから、今度は違った淵へ行ってまたやれ」と言われました。そういうようなことで、そ の日はいろいろ教わりました。その時はヤミ商売はもうやっておりませんでしたから、も ちろん鹿島の清流、山、青葉、頭を休めるのには非常にいい場所でしたし、すっかり病み つきになりまして、毎日、鹿島川へ行きました。

鹿島は大町から歩いて行くと、その釣り場に行くにも1時間半ぐらいかかるんですね。 そうこうしているうちに、兄に、「お前、鹿島に行っているんだけど、篭川のほうが近い から篭川に行ったらどうか」と言われました。まだ来たばかしで、要するに大町の平から 西側は西山っていうんですが、東の山は東山っていう、まあ、そういうふうにひとことで 言っているんです。西山ってところは私たちの子供の時分から、西山はおっかないよと、 そういうふうに普段に言われておりまして、それでまた、西の川もおっかないと思われて おりました。

東の川には農具川という川が一本流れているんですが、西は高瀬川、上流に篭川と鹿島 川が合流して、大町の西側には梓川と同じ槍ヶ岳から流れてきた高瀬川があります。それ は相当の水量で、われわれが子供の時分に家の2階で寝ていると、高瀬の清流の音、清流 じゃないですね、轟流ですね、ゴーという音が子供の時分からしとったです。そのくらい 今と違って、すべての騒音というものが雲泥の差なんですが、静かな町だったから、夜中 には寝ていると、ゴーと高瀬の音が聞こえたんです。それが、東新電気って、いまの東京 電力の高瀬川の発電所で、大正12年に完成しているんですが、それができると、まあ水 音も、同じ水が流れとったのに、なんか違ったような感じもしました。今度は昭和電工が 青木へ鹿島川の水を落として、青木の水と高瀬川の水を全部とって、そしてそれを東山の 中腹にトンネルを掘って犀川へ落としてしまったから、高瀬川は水が流れなくなってしま いました。いま問題になって、漁業組合や、あるいは環境に携わっている人達は、高瀬川 に水を流せというような運動をしております。

そんなわけで、篭川へ行けって言われまして、篭川は、だいたい鹿島へ行くより半分く らいの時間で行かれるわけで、そこへ行って釣るようになりました。そうすると鹿島より 篭川のほうが魚はおったです。それで一つ釣り、三つ釣り、するようになって、これも毎 日行っておりました。で、釣ってきた魚は塩焼きにして食べたり、煮て食べたりしたんで すが、そのうちに、10だ15だと釣るようになりました。

そうしたらまた二番目の兄に、「お前魚釣れるようになったが、その魚を毎日食べるの もたいへんだけれども、売ったらどうか」と言われました。それは私は売ればお金になる から、しごくいい話だと思いましたが、「料理屋へもってって売れ」と。ところが私は満 鉄で10年ばかり、サラリーマンやっとったから、「こんにちは、魚いかがですか」って ことはなかなか言えないんです。なんていいますか、それが慣れてくるとなんでもないん ですがね。そしたら、兄の知ってる料理屋があって、それは大町一の料理屋でしたが、 「その料理人を知ってるから話しとくで持ってけ」と言うんで、「そんならまあいいか」 ということで、釣ってきた魚、まあ200匁か300匁というと、12、3匹になるんで すが、持ってって料理屋の玄関に入っていきました。料理屋へ魚を売りに行くのにお勝手 口へ行くのがこれは常識なんですが、そんなことも知らないんですよね。女将が出てきて、 「何だ」「魚持って来た」。その女将さんもいい人で、まあ、兄から聞いとったんかと思 うんですが、その魚篭(びく)を持ってお勝手に行ってくれたんです。そして、女将さん、 お金は現金で払ってくれってことは兄貴が言ってあったから、勘定してくれました。当時 100匁100円か120円ぐらいだったと思うんです――100匁というのは170ラ ムですか――300匁とかなると4〜500円の金はもらえたんです。それで、まあ、米 買って、生活を立てておったんです。

そうやっているうちに、昔の友達にも魚釣りの好きな人もいまして、そういう人達と、 高瀬、鹿島、篭川と、登山じゃないけれどだんだんとルートを覚えて、行くようになりま した。昭和22年はそんなことで、そうとうまあ魚を釣れるようになったわけです。私も 魚釣っての生活をいくらか始めた時分に、「こんな大きいアルプスが目の前にあるんだが、 このアルプスで熊やいろいろ捕って生活はできないもんか」と、いうようなことを考えて いたんですが、黒部に魚がたくさんいるということは魚釣りだったら誰でも知っているこ となんです。昭和23年はもう春から釣り初めていましたが、「黒部へ行こう」と勤めて おった友達が、「4日ばかり休みがとれるで、一緒に行こう」というわけで、2人で7月 に黒部へ出かけました。

このまえ、慎太郎さんの話の中でちょっと出しましたが、私は昔、登山したことがあり ますから、針ノ木峠を越えて黒部へ行くことは知っておったわけですが、このとき、慎太 郎さんに行き会って、「魚釣りに行って来る」「まあ行って来な」と。

相棒の友達も職業軍人で、やっぱり足は丈夫で元気がよかったから、大町を出て、峠を 越えて平(だいら)まで一日で行ったわけです。平について、まだ平の小屋は営業してお りませんでね、それで、小屋に泊まればいいようなもんだけれど、他に4、5人、魚釣り に来とった人たちがおったで、その人達と一緒に泊まり合わすのもいやだ、ということで、 平から百メートルばかし下流へ下がったところに広い河原がありまして、その河原の山際 のところに大きな岩が一つあって、その下が、まあ2人、半分くらい入れるような、掘れ ておったところがあったので、それじゃ今夜はここでキャンプにしようと。そのとき針ノ 木沢で釣ってきたイワナを食べたりしました。

翌日は、御山谷に小屋があるということは聞いておりましたから、御山谷へ釣りながら 下っていったわけです。もちろん、昔は道があったようですが、当時は黒部の発電所関係 で、道を作っていたわけですから、この道は昭和7年以降、もう絶えてしまってたんです ね。それで、川端を釣りながら下がっていったら、御山谷というところに小屋がありまし た。その小屋はね、小屋っていっても相当坪数も大きいし、小屋だけでも敷地が30坪く らいありましたかね。それで3階建てで、ガラス窓が入ってるんです。旅館みたいな小屋 で、これは大したもんだと思いましたが、そこに入ったら、誰か先人があって、魚釣って 一つ棚こしらえて、囲炉裏みたいなもの作って、焼いた形跡がある。われわれもそこで魚 を焼いて、火棚へあげて、いくばかりか釣った魚をもって帰りました。ところが、素人で、 焼いた魚は大町へ来たら、半分腐りましてね、半焼けの魚持って来ても夏のことですから、 大町までもたなかったわけですね。ほとんど食べられなかったです。

とにかく、魚はいたんですね、黒部に。どこに投げても、魚は飛びついて出てくる。一 緒にいった人は餌釣りなんですが、彼はみみずを持って行って、みみずで釣ったわけです。 私は毛針で、いわゆる、てんからって、疑似餌を水面に浮かべて、飛びつくやつを引っか けるわけですが、両方同じくらいの数は釣りました。

そんなことで大町へ帰ってきて、黒部には魚がいるで、とにかく、魚を大町へ持ってく れば商売になる。では、どうやって持って来るかということで、いろいろ研究したり、話 を聞いたりしました。後でやる燻製ということは、当時は全然知りませんでした。それで、 米の米糠に塩を混ぜて、その中へイワナを入れてくると、大町までは生で保つという話を 聞きまして、それじゃ焼くのはこの前よりはよけい焼いて、それから生は米糠に塩を混ぜ たやつに入れて持って来ようと思って、米糠を石油缶一つに入れて持っていきました。

それで、8月のお盆に出かけていったんですが、御山谷に着いたら、西山に近い所にあ る野口という部落の若い人たちが5人ばかし、小屋の前にいまして、「やあやあ、曽根原 さん来たけれどもね、ここに富士弥さあいて、泊めねえっていうよ」。富士弥さんて人は、 遠山富士弥っていうんですが、泊めてくれない、お前達は帰れといわれたらしいんです。 どうすりゃいいかって、いまから帰れといわれても、これは、富士弥さんの山小屋じゃな い、これはもと日電の小屋でずっと無人でいたから、たぶん営林署の管轄になっているん だろうから、そんなことはかまわんと言いました。富士弥さんのいる部屋の他に部屋がい くつもありました。一つ6畳間ぐらいの部屋があって、開けてみたら、火薬庫に使った部 屋なんです。全部トタンでくるんである。床も、壁も、天井も、トタンになっている。こ れはいい部屋だ。私も2週間ぐらいいるつもりで食料を持っていきましたから、このまま 帰るわけにいかんし、若い人に手伝ってもらって、ここに囲炉裏を作ってしまえば、こっ ちで富士弥さんと別れて、魚釣りはできます。ちょうど富士弥さんは釣りに出て、いなか ったから、みんなで真ん中のトタン板を剥いだら、根太にこんなに太い白樺の木を渡して あった。これを切るのは相当骨を折りましたが、それを切って砂を入れて、囲炉裏を作り ました。「あんたたちも泊まって釣ってけばどうだ」「いやあ、富士弥さんおっかないか ら、今日はここに泊まって明日は帰る」「それじゃ、おれはまあ、これから釣り行って来 る」。それで小屋から川渡って、小屋のあるところが御山谷でこっちが本流で、こういう 三角地帯に小屋があったんですが、すぐこの御山谷を渡って、御山谷の合流点の下が、い い淵がたくさん重なっておって、そこで釣っとった。夕方でしたが、なんかどっか後ろに 人がいるような気がして、こう見たら、一段高い川縁のところに、大男が立ってこっち見 ておる。ああ、この人が富士弥さんだなと思いました。

昭和7年に立山に登山したときに平に行ったら、向こうに小屋のあることはすでに知っ とったが、こちらにも三角の小さな小屋がありました。で、中を覗いてみたら人がいる気 配があったから、ここに泊めてもらおうや、ということで泊まったところが、それが富士 弥さんの小屋で、富士弥さんはその時分に魚釣りを商売にしていて、右岸に小屋を作って やっとったわけです。

そのときにいた富士弥さんとはだいぶ違うんですよね。なんというか、全くの山男で、 人相も山男だし、身体も山男だし、見ただけでもこの人はおっかない人だな、と思ってい たら、「おい、お前どっからきた」というのが第一番の言葉でした。「大町から来た」 「大町ってどこだ」「大町の八日のカクヨって家だ」「おう、カクヨか、カクヨはおれ知 っとるよ」とこうなんですよね。それで二言三言、そんな話をして、「後で俺のところへ 来いよ」というからね。そのときは私は、魚篭がいっぱいで入らないのを“うけ網”って タモに半分くらい入れて、こうやりながら釣っとったんですが、それをどのくらい立って 見とったのか、後から考えれば、これは魚釣れるで一緒にやればいいじゃないかと思った のかも知らないです。それで、小屋へ行ったんです。彼の部屋へ行ったら、よもやま話の 末に、「どうだ、おれと一緒に、共同で魚釣りやらんか」。これは私には渡りに船で、 「いいどころじゃない、やりましょう」ということで、富士弥さんとのあらすじは、そう いうことだったんです。

「それじゃ俺、5日ばかり経ってるが、米3升あるで、おまえさんも3升出せ。3升出 し合って、6升でやろうじゃないか」。私もね、5升ばかり持っとったので、「3升も5 升もない、共同でやるんだったら、5升出して、3升と混ぜて、それで、米のあるだけや ろうじゃないか」と話をしたら、彼も非常に喜びましてね。そんなことで私の人間性を見 たかね。将来とも私を相当かわいがってくれました。それで、「おまえさんは専門に朝か ら晩まで釣れ。それで、飯の支度から、魚を焼くのはおれがやる」でどうだと言います。 私はね、釣らしてもらえばこんなうれしいことはありませんので、これは飯の支度やらん で朝から晩まで釣れれば一番いいと、これは二つ返事でね。

それからその日の釣ってきたやつを、「おれ焼いてやるわ」てなわけで、富士弥さんが 20ばかり持って、私も30ばかりで50ばかりあるのを、ビニールのふろしきみたいな 大きいやつがあって、それを広げて、そこへどーと全部あけて、それで、さっさと処理し ていくんです。まず、イワナの頭をこっちへ持って、肥後の守っていうナイフを持ってま してね、肛門から、すーとやって、腹がぱっとわれる。そうすると、イワナの頭をこうや って、喉元のここへ、親指をつっこむんですね。で、ここへ腸と、胃袋がこういう風に、 S字になっているんですが、S字の上に上がったところをつかんで、引っぱり出して、こ うやるとぽろっととれるんです。「お前さんもやって見ろ」っていうからやってみるが、 どこへ親指つっこんでいいだか、さっぱりわからない。やたら引っ張ると、切れて、完全 に向こうに残っちゃって。「どうやるだ」「どうやるって、ここにこう入れてやれ」。そ れがわからなくてね、しばらくそれは手間がかかりました。なるほど、魚の口を開けばこ こに喉があるんですが、開いた喉のところにある軟骨と胃袋の間に半分親指をつっこんで やると、半分切れるわけです。それをこう引っ張ると、ころっと取れる。とったやつを全 部、ふきの葉っぱ持って来て、その上にみんな腸をのせる。やったやつはすぐ、串に通し ます。尻尾を上に口を下に、口はぱかっと開いているから、口からこう入れて、腹もこう 割れていますから、ここんところは全然当たらない。で、この肛門の所から、下が尻尾の 肉があって、これへ刺していきます。そしてすぐ囲炉裏にこう立てて、片っ端からそうや ってく。すると火をどんどん焚いていますからね、先に刺したやつが乾いてくると、ヒレ がぱーんと開くんです。胸ヒレのここと胴腹の下のここに二つヒレがあるんです、これが 開いたやつをぽっぽっとやると、腹に引っ付いちゃう。引っ付けながら、また腹出してや る。まあ器用なことをやるもんだと思って見とった。こんどはその腹どうするかと思った ら、形でいうと、これが喉に付いているほう、喉から下の方に胃袋があって、これがこう 曲がって、腸になっていくんです。ここから切れて取れてるから、この曲がったところを、 小さいまな板を使いましてね、ここへ載せて、ずっと引っ張っちゃえばね、その曲がった ところへナイフをちょっと入れて、こう、こくんです。そして、ナイフはまな板のここに こするとね、そっちへみんな落ちてしまう。そして、持ち替えて、こんどは腸のほうを、 スースースーとやると、もう水になったやつが、みんな出てしまいます。それを今度は別 の葉の上へためて、全部そうやって処理してしまうと、このくらいなミルクのカンカラだ と思うんですが、これに針金通してあって、これに水をいれて、火棚の下へちょっとかけ る。火はどんどんと燃えていますからね、それに塩を入れてがらがらとわいてくると、そ れに処理した腸をごそっと入れて、かき回さないんです。入れたままにしとくと、ぐらぐ らぐらと煮えてきて、それがバラバラになったやつを、カンカラおろして、このくらいな 熊笹の皮の簀の子がありまして、これへ箸でもって、カンカラからあげて、目の前の火棚 に載せたわけです。初めての晩でございますから、私はなにもかも珍しくて見ておりました。

そのまま、寝て、朝、なるほど7時頃、起こしてくれましてね。「曽根原さん、飯は炊 けてるで、ご飯食べましょう」。味噌汁もわいてるし、で、ご飯食べて、それから、弁当 がね、飯盒の中ごにご飯詰めて、蓋かぶせて、それを紐で縛って、背中の背負子(しょい こ)に入れて、釣りに行きます。それで、7時に起こされて、すぐ、魚釣りができるから、 嬉しくてしょうがないですよね。最初の日はすっとんで、下(しも)へ行きました。本格 的に下まで、釣ってんたんですが、だいたいその日は、200近く釣ったと思います。そ れで、帰ってきたら、富士弥さんも3、40釣ってありまして、それはいくらかもう、処 理して、串にさして囲炉裏に刺してありました。それで、私のを見せました。私の魚篭は 30入ればだいたいいっぱいになってしまう。魚はだいたい30センチくらいの大きさで、 このくらいのイワナがほとんどなんです。まあ、これより小さいやつも大きいやつも、た まには釣れるが、ほとんど30センチくらいのやつが釣れたんです。これを30入れると 魚篭がいっぱいになるから、川端に小さい石で池を作って、もうほとんど死んでおります が、生きているやつは頭を岩にこんとぶつけて、殺して、そこへ魚篭からあけて、目印に ふきの葉っぱか青い葉っぱをかけておきます。そうやって、下へ行くときは魚篭がいっぱ いになるとそうやってだんだんといくんです。そして帰りには水からあげて背中にしょっ ている背負子へ入れてきました。それはまあ200くらい釣ってきたんですが、200と いうともう目方もありました。それを持ってって、富士弥さんに出したら、「や、これは 重たいな、曽根原さん、名人だね」って、ほめてくれる。「こんな釣る人は見たことがな い」てね。いやあ、それで嬉しくなってしまって、もう、やみくもにやりましたよ。まあ、 上手だったですな。私より27、8年上の人だったですが、まだ元気のいい人でした。

それが今度はね、まず、イワナの切り方、腹から切る、それから、腸を出す、焼いて、 ヒレを付ける。海背川腹といって、富士弥さんはそういっとったんですが、魚は焼くとき に、こっちが頭で、こうやって、川腹って腹を火のほうに向けるんです。で、海の魚は背 中を向けろって、そう、いっとったんです。最初こういう風にきちっと並べて、腹がだん だんと開いて、中へ熱が入るんです。開くはいいけれど、その時期を見計らって、イワナ のぬめりがあります。このぬめりが、少し粘ついて、つるつるしとるんですが、乾いてく るとヒレがぴんとしてくる。その時期を見計らって、ヒレをつけなきゃ、後でやると、い くらくっつけても、ぴんとヒレが開いちゃう。そうなると、製品になったときに、箱に重 ねて入れるから、このヒレがみんな欠けてしまうんです。そうするとこんどは、売りにい った先でもって、ヒレのないような魚ということになって、製品としては悪くなってしま うわけなんです。それは長年、富士弥さんは商売やっとって、どういう風に作れば売れる とか、売れないとかってことは、とうの昔に知っとった。こんどは200からになると、 だいたいね、20匹か25匹、片側に刺すんです。あの人は串を刺しては、囲炉裏を挟ん で向かい合っている私のほうへよこすから、私は言われたとおり、囲炉裏にきれいに並べ て刺して、乾かないうちにヒレを引っ付ける。「あいよ」って言っているうちに、まごま ごしていると、もういくらやっても引っ付かないんです。すると、唾でもって、ヒレを濡 らしてね、水なんか私の所にないから、やっと引っ付ける。まあそれも教わりました。

それから、塩辛にするんです。小さい海苔の瓶を持っていましてね。腹出したやつを瓶 へ入れて、塩入れて適当にかき回して、にんにくを薄く2、3枚そいだやつを入れるんで す。それを翌日、「弁当のおかずにこれだけ、曽根原さん入れときましょ」。飯盒の蓋へ 詰めたやつに、真ん中掘って、あんまり掘ると、底出てしまうからね、いい加減に掘って、 そこへ入れて、ご飯で蓋して、また蓋をのせる。そうすると、熱いご飯ですから、お昼に 食べると、それがもう、ほとんど原型がないくらいにとけちゃって、ごはんに全部しみて いるんです。これはまたうまいんですよね。おかずというものはないんです。それにニン ニクひとかけ持ってって、かじりながら、昼飯は食ってたんです。その塩辛は、本当にで きれば皆さんにもご馳走して上げたいような、それはおいしいものです。かつおの塩辛な んかと同じですが、塩辛も慣れた人は、イワナの生臭いにおいが好きで、私が山を下りて 里へ帰ると、それを待っている連中がおりまして、持ってってやるともう大宴会になるわ けなんです。それが弁当のおかずでした。

漬け物や、大根やなんかはね、山にはいるときには、多少は持っていくけど、そんなの は3日も経てば終わりで、朝の味噌汁のおかずも無くなってしまうんです。そんなわけで、 要するに自分の背中で、米、味噌、塩、着替えのものいっさい背負っていくのにだいたい 30キロあるんです。若いときの30キロは大したことはないけれど、針ノ木峠を越える というのは30キロはたいへんです。だから、やっぱり持っていく食料は制約されるんで す。味噌はもちろん味噌汁として、これは欠かせないものだから持っていきますが、味噌 汁は味噌を少なく塩をうんと入れるんです。味噌汁をのばして食べるということです。塩 は割合に軽いから、たくさん持っていったんです。結構それでも、おいしく飲めたんです。

そんなことで、弁当のおかずはニンニクひとかけ。私は最初っからニンニクはたくさん 持っていきました。ニンニクは普段、うちでも食べておったし、だいたい満州にいるとき に、子供はニンニクで生きてきたようなものですからね。私が、満州から持ってきたニン ニクを植えたら、その庭にうんと増えてしまってね、ニンニクは根っこができるんですが、 枝の先の花が咲いたここに、やっぱり小さいニンニクがなるんです。これを抜くと、これ くらいな玉になって、かけらになるんです。これだってニンニクですからね。こういう小 さいものだったら、2、3片、食べればいいんです。普通の根っこのほうの大きいやつは、 むいてわけるとこれくらいありますよね。これは一つが弁当のおかずです。

それから塩辛は、200も釣ってくるからたくさんありますが、塩辛なんてのは弁当の おかず。あるいは夕飯のおかずくらいに食べるだけだから、後は、火棚で干してしまう。 夜、干して、朝、生乾きのがまたおいしいんですよ。ちょっと塩味が付いておりましてね。 貝を塩ゆでして食べたような感じで、貝ほど固くないんです。最初の山の帰りには、メリ ケン袋というのが昔ありましたが、こいつに3分の1くらいあったです。プロの魚釣りと 一緒にやるなんて、私は初めてだから、魚の処理の仕方や、もちろん、干した腸も初めて でした。大町にはそんなものは無かったし、漁師からもらって食べたこともなかった。そ れをおみやげに家に持って帰ったら、これは、酒にもビールにも、何とも言えない肴だったです。

余談になりますがね、ある時針ノ木峠を向こうから越えて峠を下りてきたら、雪渓のだ いぶ下の所に雪渓が切れて、地肌の山が出ておった。そこで、下から知ってる大町の山案 内人の人が、「いやあ、カクヨさん、魚釣りから帰ってきたばかりか」なんて言われてね。 そばにいる人を見たら、品のいい人が2人立っている。見れば文士の大仏次郎さん。いろ いろの写真で見た顔で、「大仏先生ですか」って聞いたら、「ええそうです」ていわれま してね。「先生、峠越えてどちらに行くんですか」「立山のほうへ行こうと思って、いま 来たけれど、なんかお腹の具合が悪くて、立山のほうへ行かなんで峠行ったら帰る」とい うような話をしましてね。それで、「お腹の悪いのにはこれがいい」と、その腸の干した やつを、荷をほどいて袋から出して、「これを食べてご覧なさい」と、3人に渡した。 「何だ」「鉱物じゃない、動物だ」なんて、ふざけながら――あのころ、二十の扉とかな んとかって、テレビでやっていたことがありましたよね――。「おいしい」って言うんで す。「これはお腹にいい」、なぜいいと言いますとね、塩辛もそうですけれども、その干 したやつも魚の胆嚢ですね。苦いやつ、あれが一緒にしみているわけなんですね。もちろ ん、塩辛にもそれが入っている。むしろ、それは入れたほうが腹の薬ですから。だから、 干したそれを食べても、おそらく、大仏さん、腹は直ったんじゃないかと思うんです。そ んなことで、あの人の「旅人」って本に、そこで漁師に行き会ったというくだりがちょっ と出ておりました。もう少し、腰を下ろして話せば、もっと載せてもらえたかどうか知り ませんけど。そんなことで、腹の薬にもなるんです。

その御山谷の話にもどります。サケの燻製とかは、煙だけで燻製にするんですが、私の 燻製は、燻製とは言うけれど、完全にイワナを焼き上げてしまうわけなんでね。火棚が三 段ありまして、火棚へ上げて、だんだんと上に上がっていくうちに、水を全部無くして、 乾いて行くんですが、一番上へ行くと、魚の頭の骨の下がった首のところが一番肉のある ところで、「ここを抑えてへこむといけない」と、富士弥さんはいうんです。私は、「そ んなに乾かしてしまうと目方が減ってしまう」という欲の深い考えを持っておった。富士 弥さんはがんとして、「ここがへこんだんじゃいけないよ」。これはね、後でわかったこ とですが、売りに行って、売った先が去年の魚を出しても、「魚屋さん何ともありません よ、カビもふいていませんよ」って、いわれるんです。富士弥さんは何年もやっとるから、 これを知っとったわけですね。だから、目方をつけるためにいい加減なものをやると、そ の年のうちに魚がカビてしまうんです。これではその次持ってって、「魚屋さん、ダメ、 あんなのカビて」とやられるからね。富士弥さんという人はいい加減な人だという評判の あった人ですが、こと、漁とかイワナに対してはいい加減なんてものじゃないんです。そ ういうことも教わりました。

それから毎日私が釣って、200切れるなんてことはほとんどなかった。夕立でも降っ てくると、100とか、150とかという数に減って行くんですけれど。最高は215ぐ らい釣った記録があるんです。そのときは全部、富士弥さんが日誌をつけておったから、 数がのってたんです。富士弥さんが数を書いているってことは、山下ったときに、何匹ず つ分けるかと、いうようなことじゃないかなと、私は思って見ておったんです。

二人で出し合った米がだいたい八升あるんですが、八升食べるということは四合ずつ食 べても、10日は食べられるわけですから、米を食い延ばしすれば儲けになるってことに なってくるわけなんですね。すると、富士弥さんが、「曽根原さん、米食い延ばしするの に、飯を減らそうや」「それはいいじゃないか」と、だんだん減らしていってね、一日2 合くらいでやったことがある。一人2合ですよ。最初のうちは2合あればまあ、3×7= 21だから、3回食べれば7勺ずつ食べられるんですが、2合にしたことは結果的にはだ めで、えらかったです。富士弥さんは2合にしたときは、「曽根原さん、これだけだで」 と飯盒ごとよこす。それで私は、朝、その飯盒ごと食べて、残ったやつを弁当にして、そ れでもまだ夕飯のために残しておかなくてはならんですよね。これはどっちを見ても、根 が2合の米ですからね、えらかったがね、1週間ぐらいやりましたかな。川原へ出ていく と、たくさん石があって、そのうえに乗ったり下りたりしていろんなとこに行くわけです が、朝出ていってね、このくらいの石へ足を上げて、登るのに「どっこいしょ」っていわ なきゃ上がれないんですよ。それが、34〜35の元気のいい人間ですよ。まずえらかっ たです。それでも1時間ばかりすると、大丈夫になりましてね、鼻歌混じりで釣れました。

その年は、富士弥さんとはあと3回ばかりやりましたが、とにかく戦果は上がったです。 それで一緒に山から下りて、「明日、おらほにきましょ」ってわけで、富士弥さんのとこ にいったんです。そしたらね、「曽根原さん、どうするい。これ一緒に持って、上高地の ほうへ売りに行かんか。曽根原さん、どこか売るとこあるか」っていうからね。あれは2 人で何千匹釣ったかね、2百匹平均で10日といえば2千匹だから、2千五百くらいは釣 ったんじゃないかと思うんです。そうすると、貫目でいくと、干し上げたものが150匹 で1貫目だから、15貫ぐらいは釣ったんじゃないですか。1貫目は3.7キロですから、 50キロぐらい釣ったんじゃないか思うんです。それを半分ずつ、これは山の掟で、一緒 に組んでやろうというと同等なんです。漁師の仲間ではね、お前使ってやるとか、教えて くれっていうと、それはその人についていろんなことを教わるってことだから、相手が 「お前これだけだ」って渡されるだけが、分け前なんです。これがだいたい山の掟なんで すがね。私の場合は最初に、「組んでやらないか」といわれたもので。富士弥さんは私と 組んでやるというが、同等だなと、私も一生懸命釣ったわけなんです。それで帰ってきて、 「さあ分けてやるで、お前さんはどこへでも行って売れ」っていうかと思ったら、「曽根 原さん売るとこあれば持っていって売ってもいいけれど、無かったら一緒に売りにいかん か」ってね。「どこへ行くんですか」って聞いたら、「白骨や、上高地や、あっちのほう へ行くんだ」。「それはひとつ連れていってくれ」ということで、そっちへ行くことになったんです。

(休憩)

富士弥さんとやっているときの話をもう少しします。
ある日、対岸の、黒部の右岸へ徒渉して渡って、右岸の下流を釣っとんたんですが、ちょ うどいまの黒四ダムの始点は、右岸が200メートルぐらいの絶壁になっておる一枚岩だ ったんです。そこが広い川だったから、絶壁の下を約20メートル、膝から下くらいの深 さで、普段だったら歩けるんです。ちょっちょっと岩につかまって、そこを徒渉して、そ れから下へ行って、絶壁を避けて、川端を釣っているんですが、ある時、夕立が来まして ね、一ぺんは止んで、また釣ったんですが、その次に上流のほうでしばらく長い夕立があ ったんです。雨が降っておるかなあと思っていたら、そのうちに水が濁って流れてきまし てね。さあて、これは帰らないかん、ということで、上流へ登りましたんですが、そうし たら、また強く降ってきたから、岩壁の少しオーバーハングしたような所へ雨宿りしてお ったんです。その横が、同じ岩の割れ目みたいな、しいていえば小沢といいますか、割れ 目ですね。そこで大きな音がガーとするんです。そうしたら、ふだん水の流れていないと ころに、夕立でたまった土石が、いわゆる土石流で流れて来るんです。それを見たときに はびっくりしましたね。ふだんなんにも水のない空沢で、石っころもあまり落ちてこない ようなところを、ある程度の集中豪雨があると、どこでも土石流が流れて来るんです。そ れも流れてきて落ちた石は川へ落ちるから、流れて行ってしまって、そこらにたまってい ないんです。後でそこへ行っても痕跡は残っていないんですが、山って所は、特に沢筋は そういうことがあっておっかないんです。それでびっくりして、とにかくなんとか帰らな いけない。ところが帰るには、今のダムの地点の岩壁の下を通っていかなきゃあ行けませ ん。そこが、赤濁りに濁ってきて、水がうんと増えてきましたから、もうそこを通れない わけです。そこでどうしようかと考えて、私も元気がよかったからね。幅が15メートル ぐらいある川いっぱいの淵があるんですが、そこの岩の上へ立って、ここに飛び込んで、 はすかけに向こうに行けば15メートルくらいなら、飛び込んだ勢いで行けると思いまし てね。で、頭にみんな縛り付けて、飛び込んで、こっちへ渡ったんです。流されれば、た たき落としで、命はどうなるかわからんけれども、私は泳ぐことはできましたし。荷を背 負って、頭に載せたやつには魚も入っておったんですが泳いで渡りました。小屋へ帰って きたら、「帰ってきたかい」と富士弥さん、いうんです。「えらかった、雨降ってね」 「そうか、俺ゃあ、向こうで泊まると思った」と、こう言うんですよね。あの人は、決し てきついことは言わないんですが。「待てよ、泊まるって向こうで野宿か」って考えたら、 なるほど私のやったことは無茶なんですよ。こんなことは、まかり間違えれば命なくする んですから。富士弥さんに「曽根原さん、ビニールの紙に包んで、マッチはここに入れと きなさいよ」って言われて、マッチを一つ持っているんです。そのマッチはいくら雨降っ たって、からだが濡れたって、濡れっこないんですが、「それで火を焚いて向こうで野宿 して、水が引いたら、明日、明るくなってから帰れ」ということなんです。そのとき、つ くづく、「そうか、山ってものは無理しちゃいけない」と思いました。富士弥さんという 人は、そういうことは徹底しているんです。それでも、「無茶しちゃあいかんよ」という ことは言わない。「曽根原さん、マッチも持っとったし、俺は野宿すると思った」と、こ う言うんですよね。先達のありがたい言葉だと思って、あとあとそういうことは頭に残っているわけです。

それとかね、あるとき、泊まり掛けで、“した”(下流)へ行こうと言われました。普 通日帰りで釣って帰ってくるには、御山谷から、いわゆる別山の剣沢のほうから上がると、 内蔵助平があって、そこを流れてくる、相当の水量の川が、内蔵助谷っていうんですが、 その辺までいって、帰ってくるのが、せいぜい一日の行程なんです。その下がまだ新越沢 の出合まで、ゆっくり一日の行程があるんです。“した”っていうのは、そこへの途中に 榛ノ木平(はんのきだいら)ってところがあって。昔、榛ノ木平の小屋って、昔の地図に は載っているんですが、まあその辺まで、釣りに行こうと。二晩泊まって帰って来ようと いうことで、行ったんです。そして、「もと親父と来たときに、どっかこの辺に岩が組み 合わさって、2人ばかり入れるところがあるんだよ」って、行ったら、ありましてね。 「これだ、これだ」ってわけで。富士弥さんも私と組んだので、そっちへ行く気になった んだが、普通は上の方が安全地帯で、そこで魚釣っとったんです。だから、何十年ぶりで そこに行ったわけです。「たしかここにあの当時の串があるだろう」っていいます。私た ちのイワナの串というのはこのくらいあるんですが、30センチの魚を刺すと、頭がこの 辺まで来ますから、あとこのくらい刺すと、ちょうどこれで焼けるんです(串の長さ約5 〜60センチ)。その串がありました。それがね、ボロボロに折れて、なるほど削ったあ とがある。「だいたい、富士弥さん、これ何年ごろだい」「30年ぐらい昔じゃないか」。
まあ、そこに泊まったわけですが。

富士弥さんの親父は、遠山品右衛門ていう人で、アルプスを嘉門次と二分していたって くらいに、北の大庄屋、山のそういう偉い人を庄屋っていうんですがね、大庄屋っていわ れるくらいで、嘉門次さんも一目置いたって人です。この人が黒部の魚釣りを一番最初に 始めた人なんです。この人はね、耕作の田圃やなんかも多少はあったけれど、やっぱり何 かで稼がなければいかんということで、魚釣りで黒部の平(だいら)に入った、一番の先 駆者なんです。その人が一緒にやっていた時分の串ですから、だいぶ昔の話なんです。昭 和の初めか、大正の終わりごろだと思います。

ところが、そこへ行ったら、いるんですよね。よく、黒部のイワナは川のウジだ、ウジ がわくっていいますよね、そのくらいどこにもいるんです。これだけの川が流れると、大 きい岩もある、小さい岩もある。せいぜい50センチくらいの深さで流れる広いところに あるこういう岩の陰に1匹ずつおるんです。見ればわかる。ここに岩があると、ここに一 つ。こういう岩の陰って、流れが両方から巻き込んでいるところですから、イワナはヒレ を動かさないでここにちゃんとしていられるんです。流れているところは、ヒレでもって しょっちゅう泳いでいなけりゃあいけないんですが、ようするにエネルギーを使わんでイ ワナがいられる所なんです。そういう岩の陰に必ずいるんです。そして、こっちにも岩が ありましてね、ここにもいるのがわかるんです。そこで、二つの岩の中間に投げるとね、 両方飛び出して来るんです。どっちか早いほうが強いんですがね。こっちのほうが遅けれ ばここに戻るけれど、今度はここに流してもこれはもう来ないんです。だからね、これ釣 るには、こっち側に、これを釣るいい場所があれば、ここへ落として、今度はそこに落と して、両方釣るわけです。ここしか毛針の振り込むところがなければ、こっちよりのここ に振るんです。そうすると、こっちのほうが遠いから、来ない。ここにいる魚のことを知 っているから。で、これは上げていただき、この次これもいただいて、みんなそういう風 にして釣っていくわけなんです。2日釣って、びっくりするほど、数で500ぐらい釣っ たんじゃないですか。ところが、釣った魚がどうも細いんですよ。それで持ってきて焼い たらね、ドジョウです。「どうも富士弥さん、せっかくこんなに釣っても」「いいや、た くさんの中に混ぜて売ればいい」。それから何年も私はそこに行くんですが、次の年もド ジョウで、その次の年から、すこし幅の広い魚になってきた。要するにおろぬいて、餌の 配分をよくするとイワナも肥えてきたわけなんですが、そのくらいおったんです。  それで、あるとき、川を徒渉しているときです。のべ竿といって、いまみたいなつなぎ の竿じゃなくて、一本の竿、竹の棒なんですが、しなしなして柔らかいけれど、流されな いために、それにつかまって渡るわけじゃない、安定を保つために、私は川を渡るのに、 こういう大きい岩の上を渡る。岩の下は渡らない。だから、渡るところはこういう風に波 が高くなっていて、ここが膝の下くらいです。こういう風に水が流れているところを下流 から足をこうつっこんでやる。そうして、ここで、右足と一緒にして、また、次の足をこ うつっこんでやると足を流されないでね、岩の上を渡っていけるんです。それほど深く入 らなんで、渡れるんです。ちょっと危険ですが、慣れてくると、一番楽なんです。で、そ のときも、こうやって、安定のために、ふらつかぬために、竿をついてわたっていくんで すが、糸が川下へ流れていく、向こうへ上がったら、この糸の先にイワナが一匹付いてくる。そのくらいにイワナがおったんです。

だから、上手下手じゃない、根性でこうやっていれば釣れる。のちに黒部で行き会うん ですが、目が大分見えない人で、佐伯安太郎といって、立山の芦倉寺のひとで、昔、五色 の小屋と平の小屋を経営しとった旦那さんなんです。それがばくちが好きで、平の小屋も 五色の小屋も人手に渡して、後は関電の人夫の飯炊きに来とったんだが、目が悪くて、そ れでも好きだから魚を釣るんです。見ていると、めくら釣りなんです。もうそこへ投げた、 だいたいこの辺の川の流れがわかりますから、こう投げて、2秒。1、2、ポン。これで 結構引っかかるんです。合うんですよ。それだけ、黒部に魚がおった。だから、根気よく 釣れば、まあ、150ぐらいは釣れたんじゃないかと思うんですがね。それくらいおりました。

それと、私は生まれて初めて、富士弥さんと組んで、そこでやるんですが、御山谷から、 少し下っていくと、ダムの下流に、左岸から御前谷って立山から流れてくる川があるんで す。それを越えた下が大きい広い川原になるんです。そこへ行くと、人に呼ばれるんです。 「おーい、おーい」て言うんです。そこは黒部別山のひとつ前山の丸山という山のあたり なんです。こんなとこ、登山道もないし、登山者も間違ってくるわけないし、立山から下 りてきた人は沢に下りてくるからね。びっくりして見回すんですが誰もいません。これは 耳のせいだなと思って、やっぱり川の音はしてるんです、ざーざーざーてね。その音の他 に「おーい」という声が聞こえるんです。まあそれは耳のせいということで、私はかたず けておったんですが、帰ってきて、富士弥さんに聞いたら、「ああ、それは俺も聞こえる。 場所によって聞こえるところがあるが、曽根原さん、あれは耳のせいだよ」と。家に帰っ てくれば、仲間に遠山林平(りんぺい)さんてひょうきんな人が、「黒部に落ちて死んだ やつの亡霊がおって、魚釣りしていると、おーいおーいと呼ぶんだよ。おーいって返事す るとな、それは引き込まれてな」。そういう話をおもしろ半分にする。そんなことはありませんけどね。とにかく、「おーい」って声は聞こえるんです。

それから、朝は、富士弥さんに起こしてもらうんですが、富士弥さんは、200匹の魚 をだいたい2時か遅ければ3時頃まで焼いてるんです。それで、朝、あの人は、7時に私 を起こして、ご飯ができておって、食べて行くんです。あるとき、明日の朝、暗いうちに 起こしてくれって頼んだんです。それで、なにするかって、朝暗いうちに釣ってみるって いいました。御山谷合流地点の上流がうんと川幅が広くてね、20メートルくらいの幅に 川があると、川原はこの3倍も広いんです。それで、うんと大水がでると、いっぱいに流 れるんだけれど。川原の中州にピーヤが一つあって、これに釣り橋が架かっているんです。 ここの所が川原が広くて、それで流れているところが20メートル位ですからね、大きい 岩も無いんです。川岸もこんな岩がごろごろしている。で、あそこへ行って、釣ってみよ うと。なぜかと言うと、どうもイワナは、夜、端へ出てきているんじゃないか。川の岸で すね、岸に来ているんじゃないかってことを、私も、やっているうちに、気が付いたって 言うか、考えたわけなんです。だから、大きい淵のあるところは、岸といったって、深い んだが。遠浅の川なら、岸も浅いから、そこへ行って釣ってみようと思った。そこへ行っ て、岩のいっぱいごろごろしている、岩の陰が水がすいているわけですよね、そこへ薄明 かりで毛針が見えるようになってから、糸を短くして、そっと落とす。ここへみんな出る んです。この岩と岩のごろごろした、だんだんだんと深くなってきて、真ん中の本流に流 れ込んでいるんですが、岸のほうが浅くなってきて、ずっと岸に近づくと岩が頭だして、 この岩と岩の間へ、私が静かに毛針を入れると、ぽんぽんぽんぽん、いっぱい魚が出るん です。こんなことは初めてでね。それが、日が明けてしまうと、魚が出ない。本流へ帰っ て行っちゃう。安全な処へ。夜でも魚は餌をあさります。川虫は浅い瀬に比較的多くいる んですよね。これを朝、明るくなるまでの間に、もう、魚篭いっぱいとって、富士弥さん とこに帰っていった。「や、曽根原さん、朝、暗いうちに魚釣れるだか」てわけでね。富 士弥さんも長い間、30年もやったんでしょうけど、そういう経験は無かったようです。

それで、朝、3時なら3時と暗いうちに起きて、釣って帰ってきて、朝飯食べて、それ で支度して、また出て行くんですが、まあ、本当に朝から晩まで、釣り専門でした。富士 弥さんが焚き物集めたり、その間に、自分で魚釣ったり、ところがね、減食しようという ことで、一日2合ってときは、富士弥さんもえらかったらしい。富士弥さんのほうが私よ り、25、6も年が上ですから、そんなに食べなかったと思うが、私のほうは食べ盛りで したからね。ところがね、これは疑うと、きりがないですよね。富士弥さんは留守番で、 小屋におるから、いくらでも、腹へりゃ食べられると思うんですよね。これを疑うと、も う共同生活はできないわけですよ。私はそんなことは疑わないで、そんな人じゃないと。 あの人も米を食い延ばして稼ごうという、執念に燃えている人ですからね。私も子供2人 いるし、何とかして生活を立てなきゃいかん、というようなことで黒部に入ったわけです からね。そういうわけで、私も全幅の信頼をしておったし、あの人も私を信頼しとった。

そういうことで、さきほどの売りに行く段階に戻るんですが、普通、漁師というものは、 共同でとったものでも、自分の売り先まで教えるということは無いんです。絶対にないん です。それを富士弥さんは自分のお得意先を私に教えたんです。で、白骨に行って、白骨 には旅館は新宅と本家があって、道路から入っていくと、新宅のほうが先なんだから、新 宅へよって、買ってもらって、次に本家へ行くんです。新宅の女将さんが、「よく来てく れた。今日はうちに泊まってくれ」って、私が初めて富士弥さんと行ったときはそう言わ れたんです。そうしたら、富士弥さん、「それじゃ、今日、ごやっかいになります」とい って、それから、本家へ売りに行ったら、「やあ、遠山さん、久しぶりだね」って、本家 の親父さんも富士弥さんを知っとって、魚買ったあと、「うちへ今日泊まれよ」なんてい ったんです。「いやあ、新宅へ泊まることに決めたで」。新宅に泊まったんですがね。漁 師っていうのはあの辺では地場の人たちなんで、私のほうは北安曇ですが、あっちは南安 曇です。南安曇の人は梓川系統で、村の一般の人たちも、イワナって魚を相当漁師から買 って、正月魚なんかに食べていたようです。だから、イワナ持っていっても、もちろん、 宿屋はお客さんが来るから、お客さんのために買うわけなんですが、泊まれば、大事にし てくれて、その敗戦の頃の23年頃なのに、酒を出してくれたんですよ。そのくらい、大 事にしてくれました。私は富士弥さんに付いていって、びっくりしたですな。「金払うの か」って聞いたら、「こんなの、ただだ」って。ただで、お酒頂戴して、これで商売して 帰るなんて、こんなうまい話、本当にあるのかなと思ってね。

それから、中ノ湯とか、上高地にも行きました。上高地の白樺荘は、職漁者を、いわゆ る梓川系統のイワナ釣りの魚釣りを雇って、お客さんに生の塩焼きを出すのがモットーだ ったんです。だから、私たちの燻製は出さないんだと。職人を雇ってやってるからいらな いと言う。ところがね、その下に温泉ホテルというのがありまして、そこの支店長みたい な人がいて、やっぱり富士弥さんは知っとったんですが、魚を相当買ってくれて、夕方だ ったので、「泊まって行きなさい」ということで、そこでも、やっぱし、お酒を出してく れたんです。富士弥さんと別れても、それはずうっと続いたですよ。もう、売りに行くの は私だけでしたがね。そんなことで、あっちは漁師を大事にしているところでした。私も イワナ釣りを商売にして、魚売りにいって、大事にされりゃあ、気は楽なんですよね。つ っけんどんに物言われて、高いのすべったのなんていわれたら、根が商売人じゃないです からね、嫌気起こしてヤケ起こしてしまうかも知れないが、そういう人にも助けられたん じゃないかなと思います。

それから、富士弥さんとの話を、あと、二つ三つします。 その山は終わって、「次は東沢に行こうや」て言ったんです。「東沢も居(い)る沢だ」 と。東沢は、黒部の平から4キロばかし上流に行ったところで、左岸から水晶岳を源流に 出てくる沢ですが、「そこへ行こう」ということです。「そんなとこ行ったって、小屋あ るか」って聞いたら、「俺が建てた小屋がある」と。それで、行ったんです。烏帽子へ登 山して、三岳越えて、野口五郎の最後の鞍部のところから下りていったんです。すると空 沢でね。雨が降れば水が流れるんですが、天気のいいときは水がなくなっちゃう。そこを 下りていったら、下るのに2時間くらいかかるんですが、一直線です。それで、川に着い たら、柳の木のこんな太い大木がこっちから倒れて、向こうへかかって橋になっている。 こんな大木だから歩くところがこんなに幅広いんですね。「こんな橋、富士弥さんが架け たか」「馬鹿言って、こんなの倒せるわけないじゃないか、自然に倒れたんだ。ここはも と俺達が鉱山で来た」。向こうへ渡ったら、大きな家くらいの岩があって、その陰の所が、 川から1メートルも上がってないんですがね、砂の川原だったんです。で、すぐそれが、 巾10メートル足らずで、山になってる。赤牛岳の裾なんです。そこに、こういう三角の 立派な小屋が建っているんです。それがこんな幅の板なんです。長さも6尺くらいあるん です。途中で屋根ふいたのに、足してある板もあったんです。「こんな板どうしたんだ」 と富士弥さんに聞いたら、「ここにもと鉱山小屋があった」。それで、魚釣りの合間にそ の話をするんです。小屋のそばの川原からちょっと上がったところに段があって、そこが 幅10メートルくらい、ならしてあるんです。一段上に上がったところもそのくらいあっ て、長さは30メートルくらいある。ここにその鉱山の人夫がいた飯場があった。立派な 小屋があったんですね。それで、水車まで川に作って、それで、鉱石をこわして、運び出 した、という話です。「こんなとこで何が出た」て聞いたら、「金が出た」。

富士弥さんの話では、金は富士弥さんがやったんです。いちばん上の息子が佐渡の金山 からどうやって運んできたか、金の鉱石をある程度持ってきて、その鉱石を砕いて鉄砲の ケースに詰めて、そして、何十発と鉄砲で山にぶち込む。それで、仙台の銀行のバックア ップでね、大町に長く住んだ星さんという人がおって、その人達が来た。富士弥さんは 「ここ掘って見ろ、ここらいいだろう」といって、盛んに鉄砲でぶち込んだ所を掘って、 麻のこんな袋に詰めて、かついで仙台に持っていって分析したら、分離がいいですよね。 「それじゃ、それ金かけろ」ということで、やったけれど、銀行つぶれてしまったんですよね。

そのときの小屋から何からの残骸だっていうんです。それから、あの人は終戦後魚釣り をやったんですが、戦時中は、鉱山士だった。山掘らんで人の腰を掘る、もっぱらそうい う鉱山士でした。魚釣りながら、おもしろい話を聞きました。名古屋のブルジョアをだま してやったてんです。それは、富士弥さんが松本にいたときに、当時電話を二つも引いて やっておったんだから、いいかげん人の腰を掘ったと思うんですが、名古屋のブルジョア ね、いくらか山師根性があるってことがわかったらしいんです。それで、やっぱし成功し た人はなんか神様を信仰しておったらしいんです。そこに話しに行くのに、その神様をだ まかしゃあ、あれ引っかかってくるということで、その神様の教祖って所に行って、金く れて、「俺は旦那の所に行って話しとくで、きっと、旦那はお前んとこへ来て、出るか出 ないか、有望かどうか拝んで見てくれっていうから、お前拝んで、『有望だ』といえ。金 くれるで」。そういうことを言ってね、人の腰を掘っておった人です。

そういう話を囲炉裏をはさんですると、あの人の目は光るんです。犬や狸と同じ、おっ かないです。それはカンテラの光で光ったり、焚いている火の光で、まっすぐこっちを向 いたときは、ピカッと光るんです。あの人は、あの当時私とやった時分にもう、60を越 えていたと思うんですが。そのカンテラの光で、針に糸を通す。ほんとにね、真っ暗なと ころで、カンテラも50Wくらいな光があったと思うんですが、それで、ほころびたとこ ろを結構縫うんですよね。だから、ああいう目の人は目がいいじゃないですか。他にそういう目の人は見たことがないですが。

最後に、「東沢と黒部の合流点まで行ってみよう」と。何しろ私は初めてな所だから、 全部案内してくれたんですよね。どうも東沢も、途中で魚のいないところがあったり、合 流点に行ったら、淵って淵が、黒部の川が全部砂で埋まっていて、深みが無いんです。 「こんなことも珍しいな、淵が砂で埋まって、どっか山が崩れたか」てわけでね。それを どんどんと遡って、川の中は膝の下くらいでどんどん歩いて行かれるんです。そして、廊 下口というところまで行ったんです。両方岩壁がこうなっていて、普通の登山者は水の中 にこんなに入ったり、ロープで行ったり、ザイル使って、トラバースして行くわけなんで す。廊下っていったってなんぼかの幅はあるんです。川ってものは幅いっぱいに流れてい るとこは、うんと狭まっているところでないとないんですよね。蛇行して流れているから、 かならず川原があるんですがね。その廊下口だけは、埋まってしまったから、30センチ ぐらいの深さで、全部平均に流れておった。これでは釣りにならんと、じゃぶじゃぶと入 っていったら、岩壁の下が砂ですから淵がない。ここにイワナがずぅーと一列に並んでる んです。これは驚いたですね。こんなのはやったって食いつきませんからね。こんな浅い ところにいる奴は人間を見ているから、ただ、おっかながってどこへも逃げるところがな いから、そこにへばりついているだけです。それでも、そばへ行くと、上に逃げたり、下 に逃げたりしますけどね。富士弥さんは親父の品右衛門さん時代から、黒部に入っている けれど、そういう現象は初めてだと。それはなぜかというと、23年の台風の来るあの時 分に、キャサリンとかキティとかってね、外人の女の名前をつけとったんですが、その台 風の後だったらしいです。それで、上ノ廊下のほうや、薬師のほうが荒れて、土砂をまく って黒部が埋まっちゃった。流れた砂は、深いところにみんな溜まってしまうから、下ま では流れてこないんです。で、われわれのいた御山谷のほうには淵があったんです。それ を上流に上がっていって見てびっくりしたわけです。そういう経験があります。

10月15日に富士弥さんと「最後にもういっぺんやろう」。「富士弥さん、もう山に は雪が降るよ」「まあ、雪が降りゃ、帰ってくるだ」ということで、15日に大町を出発 して大沢の小屋に泊まったら雨が降りました。行く目的は、魚釣ったり、鉄砲で熊を撃っ たり、それからテンを捕るってことでね。テンを捕るってことも、私は知らなかったけれ ども、「相当儲けになるから行こう」ということで。大沢の小屋に夕方着いて、兎の罠を かけて、兎を捕ろうと。兎がテンの餌なんです。で、すぐ、ついた夕方、大沢の小屋の上 へ、上がっていって、雪渓の上に雪の消えた丘みたいな所、草がいっぱい生えて、その草 の中、兎が歩いて飛んで回っているんです。そういうところに、針金でこうわなをゆわい て架けておくと、通ると引っかかるんです。そして、朝、雨の中を兎がかかっているか見 に行ったら、3つ引っかかっていましてね。皮剥いて、肉にして、そして、あの人は皮を すぐ、尻皮にして、こうぶらさげるように、すぐ作ってしまったんですが、なかなか器用な人でした。

次の日、平に下がって、私が魚釣りに行くとね、もう川端の飛沫で濡れている岩は全部 氷が張っているんです。そういうとこ上がると、もう滑っちゃって落ちてしまいますので、 注意しながら釣ったんです。10月15日頃では、どうも黒部は産卵はもう終わっている んじゃないかと思うんですがね。それで、淵って淵は落ちた木の葉が水面をまいているし、 木の葉と混ざってイワナもこう浮いてね。淵の水がどうまいているか、こういう風にまい てりゃ、まいているほうに向かって頭を向けて泳いでいる。鼻の下に針を沈めてやって引 っかけてとるか、そんなことで、流れにいる魚の、釣れる魚もあったし、釣れない魚もあ る。それから端から1メートルくらいの所にこんな大きいのが、つながって泳いでいるん ですよ。産卵かと思えば産卵じゃないんです。とってみれば雄なんです。それが、遠くか ら餌投げても来ないんです。そこで私は、水が少ないからということで持っていったヤス というのがあったんで、4本針の出たものを、釣竿の元に刺してね、こうやって、1メー トルぐらいの所を泳いでいますから、横っ腹刺して、とったこともあるんです。それは商 売になるほどとれないんですが、結局足を使って釣ればいくらかは釣れたんです。

富士弥さんは来る途中で、ウワミズザクラという木、秋10月頃赤い実がぎっしり実っ ているんです。その実を熊が好きで、その木を見つけりゃ、その下に暗いうちに行って、 座っていれば熊が来るんだと、富士弥さんはそう言いましてね。針ノ木沢を下って、平の 小屋の近くになったら、沢からはずれて、山の中腹を登山道があったんです。それを通っ ていったときに、その木があって、そいつにたくさんなっているんです。「これは、熊が 来るぞ」て行って見たら、どうも熊はまだ来ていないようだが、来るかも知れない。富士 弥さんは二日ばかし暗いうちに行って、そこで鉄砲持って待ち伏せしておったんですが、 熊は結局とれませんでした。「おし」っていって、こういうふうに、細い棒をきれいに並 べて、簀の子みたいに編んで、ここに石を載せて、この下に餌をぶらさげて、その中に入 って餌をとると、バタンと獲物を押さえつけてとる仕掛けがあるんです。その仕掛けを3 つばかりかけて、テンが一つとれましたが。

そうこうしているうちに、11月1日の朝、みぞれが来て、富士弥さんに、「もう雪が 降るで。峠は雪が降ってるよ。下らなきゃ」「なに、まだ大丈夫だよ」。その次の日も雨 がみぞれになって、そうしたら富士弥さん、「明日6時に出発するから、今夜は支度し ろ」。登るときに、このくらいな藁の束を一束リュックに縛り付けていったんですが、獣 とるのに藁を何に使うかなと思っておったんです。そうしたら、藁は杵で叩いて、シナシ ナさせるとワラジを編んだり、いろいろするのに丈夫であるし、扱いもよくなるんです。 もう叩いてある藁を持っていったんです。それで、トットットッとワラジを編むんです。 2足編んで、「さあ、これは曽根原さん」。そのワラジの中にそこらにあったボロを混ぜ て、結構強いワラジができました。それから、そのワラジに大町にあった“しっぺぞく” というんですが、こういうふうに藁で足を包む(下駄のツマカワ風のもの)。ワラジは草 履みたいに上に足がのるから、足はみんな出てしまう。で、足を通すこの紐を背中のここ に出すんです。それからワラジの耳に通して、後ろにこうやるんですが、この“ツマカ ワ”を見ている前でこしらえているんです。これも2足作って、これをワラジに通すと、 「さあ、これ」。それから、踵に当てるやつに。なるほど、うまいものを作ってくれた。 「これを明日の朝、履いてけ」って。もう破れた足袋だったが私は足袋があったから、足 袋裸足でこれにつっこんで、これで大沢の小屋に帰るまで、足は寒くはなかった。

それで、小屋を出たら、みぞれが熊笹とかああいったものを半分倒してあって、道が通 れないんです。時間がかかりました。それから、1時間ばかり行ったら、雪が多くなって、 完全に熊笹をつぶして、雪の上を歩けるようになった。針ノ木沢はだいたい、夏山で片道 約4時間ですから、これは楽になったということで、針ノ木峠まで、6時に出れば10時 につく勘定ですが、もちろん、冬山ですから、時間がかかるわけです。それが針ノ木谷か ら、針ノ木峠に別れるところがあるんです。その尾根の出てくるところをしばらく林の中 を通って行くんですが、ここらに来ると、膝いっぱいに雪が積もっておった。たいへんだ と思って、あるところで休んだら、富士弥さんは、「曽根原さん、ここで、待っていてく れ」と、リュックサックをおいて道を歩いていったです。そして帰って来て、「曽根原さ ん、先に行け」と富士弥さんがそう言うんです。富士弥さんの踏んだ後を行くと楽なんで す。40センチぐらいの雪がなんでもないんです。私が踏んだ所の終わりに行くと、こん どは私の番なんです。私はまだ若くて元気がよかったから、荷物を背負ったまま行けるん です。トットットッと200メートルくらい行って、そうして休んでおった。そうしたら、 後で考えてみれば、富士弥さんは荷物をおいて、行って帰るから2度踏んでいるんですよ ね、私は荷物を担いでいるから一度しか踏んでいない。だから、富士弥さんの踏んだとき より、私の踏んだほうが道がよくできていないんです。それを富士弥さんは文句も言わず に付いてきたんです。2、3度繰り返しているうち、だんだん雪が多くなって、私もそれ ができなくなったんです。しょうがないから私も荷物をおいて、空身で行くと楽なんです ね。雪がそんなに苦にならないんです。「あっ、しもうた。俺は一遍しか踏まなかったん だが、富士弥さんは2度ずつ踏んで、よく文句言わなかった」と思ってね。私が帰ってき て、今度は富士弥さんが荷物を背負っていく。で、私は3回踏んだ4回目に行く。そうい うことをやって登っていったら、針ノ木峠が見えるところで急勾配でね。こっちの尾根は 登れないから、雪渓を渡って向の尾根を登っていく。これが20メートルくらいの幅があ って、針ノ木の小屋のすぐ下に、こぶみたいな尾根があって、ここについて上がれば、針 ノ木の峠の小屋がある。ここに出たんです。そうしたら、吹雪なんですよね。林の中から 雪渓に出たら、踏んでも踏んでも雪が1メートルくらいあるんですよね。雪を踏むと上か らどんどん落ちてきて、きりがないんです。それでも、ここを踏んで通らなきゃ小屋に行 けませんから。そのときに私の履いていたものは、毛の混じった羅紗みたいな軍隊の冬の ズボンなんですが、それが今までの雪でもって、濡れておったんです。足ももちろん雪で 濡れているんですが、足はワラジのおかげでちっとも冷たくなかったです。ところがその 濡れたズボンが、その吹雪で凍って、カランカランというんです。われわれは歩いていて、 汗かいているから感じないけれど、そういう濡れたものは凍るくらいのそのくらいの寒さ だった。それからやっと峠の小屋へ着いて戸を開けたら、昔の小屋で、戸がぱたんぱたん しておった。全部、中に吹雪が入っていて、泊まるなんてとこは一つもないんです。そこ に着いたのが3時です。朝6時に出て3時です。富士弥さんはそんな雪の中、なんとも思 わないんです。私なんか、雪見ただけで、これをどうやって峠まで上がって行くんだって、 もう心配でしたが、富士弥さんは泰然たるもので、山男だと思いました。

佐々成政が立山、針ノ木越えといわれていますが、どこを越えていったか知らないが、 ああやって、猟師が10人ぐらい付いてくれば、どんな厳寒の冬山でも完全に道ができて しまう。10人が踏んでいけば、その後、侍連中が普通の道歩くと同じくらいに歩けるん です。それは私たちがカモシカ猟を真冬の2月にやるんですが、雪を3人なら3人で交代 交代で、踏んで道を作って上に上がって行くんです。そうやっていくとどんな冬山でも楽 なんです。我々が里にいて雪を見て考えるようなことはないんです。おそらく佐々成政と いう人も芦倉寺の猟師を10人くらい先導さしたんじゃないかと思うわけなんです。

そんなことで、3時だと、時間帯としたらいいから、これは大沢の小屋まで下らにゃな らんと。ところが山というのはこっち側はガスまいて雪も吹いているのに、あちら側は天 気なんです。そうして、20センチぐらい積もった雪がやんで、ずぅーと下まで晴れて日 が当たっているんです。冬と春の違いだななんてね。これはすぐに下りようとかけ下りた ら、こんどは雪があるから、30分ぐらいで大沢の小屋まで下りてしまった。それが11 月3日ですね。3日の晩に大沢の小屋に泊まったんです。大沢の小屋は火を焚いたんです が寒いんですね。あそこは布団は下げてしまうから、ゴザがあってゴザをかけたけれど、 ゴザってものはダメですね。目が粗いからちっとも保温しないんです。むしろ、紙があれ ば新聞紙を何枚も載せておったほうが保温になるんです。ゴザは敷いていればお尻のほう は暖かいけれど。そういうことをやって、11月の冬山を針ノ木越えしたことがあるんです。

富士弥さんとやったときが、私が初めて黒部へ入った物珍しいときだったから、すべて が、「やあ、これは、これは」ということばっかしだったです。

もうひとつ、川に落ちた話をします。25年5月10日に遠山さんの息子、遠山さんは 24年私とやって、3、4年やって山を下りてしまった。「私は山に行かない。息子がい るので、息子を連れていってくれ」ということなので、6月10日に黒部に一緒に行くと 約束しました。6月10日の朝、起きたら、雨が降っておったんです。雨が降っていれば 登らない。もちろん、遠山さんの息子も登らないと思って家にいったら、「うちの息子、 山にいったよ」というんです。私と一緒に行くって約束していて山に行ったというので、 考えてみたら、遠山の息子さんは職業にイワナ釣るほどの腕前はないわけだから、私と一 緒ではどれだけ分け前をもらえるかわからんわけなんです。それで、私が行くから、いま まで富士弥さんとやってたところに、息子が行くのに知らん顔できないから、「連れてい ってくれ」と義理で言ったんじゃないかと思うんです。10日に行ったというから、これ はしょうがないので、天気になったら後から追いかけていこうと、そういうつもりでおっ たんです。ところが、13日に今の大町高校の集団登山で、学生が針ノ木の雪渓を登って いったら2人組が死んでたんです。それが、遠山さんの息子と、一緒に行った人の2人で した。それが、どうして死んだかというと、私は死体を下げてから、遠山さんと荷物を捜 しに針ノ木峠に行ったんですが、遠山さんのいうには、針ノ木峠に登るのを間違えたらし いと。10日に出て、13日ということは11日、12日はきっと雨が降ったから、大沢 の小屋に泊まったと思うんです。13日に出発して、富士弥さんのいうには、針ノ木峠に 行けなんで、マヤクボのほうに上がってまごまごしているうちに、疲れていた相棒がまい ったから連れて下りてきた。ところが相棒は逆さで死んでいるんですよ。ということは、 どこか上で死んだのを引きずって下ろしてきたわけです。息子はそこまで来て、小屋はす ぐそこにあるんですがね、そこで、ひと休みして、一服吸ったそのまま、後ろにひっくり 返って死んでるんです。タバコを吸った吸いがらもあるんです。山はね、そこへ来て疲れ たから一服吸う、いい気持ちになっちゃうんですよね。で、そのまま、死んでしまったと 思うんです。そして、富士弥さんと荷物を捜しに行ったが、どこに荷物を隠したか、ちっ ともわからん。峠のほうから空身で来てるんですよね。結局、荷物はわからんじまいでした。

それから、私は他の人を誘って19日に登った。19日に針ノ木峠を下りて、針ノ木沢 に着いたら、まだ、6月19日といえば登山者も誰も行かない時期なんです。山小屋も開 いてないし、そのときに、誰も行った形跡がなかったんですが、桧の真新しい木がね、一 本、川にかけてあったんです。これは山やる人たちは、川を渡るときに必ずそういうのが そばにあれば、切って、普通二本かけるんです。これは息子が山男ではないから、一本切 って架けたのだと。それは去年11月、俺が富士弥さんと帰るときにはなかった橋ですか ら、これは息子がここまでは来たと。ところが、針ノ木谷のうちで相棒が具合が悪くなっ てしまい、それでは帰ろうということで、荷物を背負って、帰ってきたと思うんですが、 途中で死んでしまったか、死なないのを峠までおぶって上げたか、いずれもその時分に、 それで、峠を空身で越えて、死んだ人を下げてきたんだと思うんです。人の運というもの はわからんもんで、私と一緒に行けばそういうことは絶対なかったと思うんです。

私たちは、6月19日から7月14日まで山にいたんです。これも相棒がよく釣って、 一緒にやったから、いい数は釣れたんですが、その14日に、さあ帰ろうということで、 朝、雨だったから、昼近く、御山谷の小屋を出発しまして、荷物も相当あって2人でかつ いで、川を上がっていったんですが、御山谷と平の間に7カ所、岩をこうやってへつった り、とにかく、悪いところがあるんです。黒部の川自体はとても広いんですが、実際水が 流れているところは3分の1、あるいは5分の1ということで、深いところは5分の1に なっているし、浅いところは半分くらいの幅になっています。7番目の所は向いから蛇行 してきてこっちにぶつけて、ここが悪い岩場で、長さ40メートルくらい、ここで、下か ら上がってきて、上の岩場をトラバースすると木がある、木につかまって、下のぶつけて いるその頭に下りる道ができている。この頭の所に1メートル直径くらいな場所があって、 これは私は岩だと思っておったんですが、そこへ前向きに下りてきて、立って、向き直っ て、あと、4メートルくらい、木の根のからんだ岩壁が続いているんです。その岩を伝っ ていくと終わって、広い川原になって、平までそのまま行っちゃうんです。その木の根が いっぱいあるんですが、それにつかまろうと思ったら、乗ったところが、ずるずると崩れ だしたんです。ああと思っているうちに離れて後ろに落っこちちゃった。そうしたら、流 れの一番ぶつけているところだから、身体が木の葉ですね。あんな大きい箱をいれたリュ ックも背負っているんだが、まるっきり回転させられちゃうんですね。それから、その回 転の途中で、だんだん上下がわかるようになり、上に顔を出そうと思ったら、また巻き込 まれちゃって、今度は、一番底に入って行っちゃった。底の石や岩が見えるんですよ。そ のときに、もう、もまれるのは終わって身体は安定したけれど、ほんの瞬間、「息はでき ないし、このまま死んでしまうかな、子供はどうするのかな」、これは1秒の5分の1くらいの瞬間的なことです。

私は子供の時分にだいたい1分は水の中にいられたんです。木崎に水浴びに行って、飛 び込んで下に潜って上がってこないので、皆心配してこうやって見ているんだけれど、と んでもないところから浮いて人を驚かしたくらいだから、潜りは強かった。

でもがまんできなかった。だが、息すりゃ、水飲んで終わりなんです。そうしたら、身 体が安定したので、夢中で水をかいたら顔が出た。やっと息吸って、それが1分あったか ね、1分越えとったかそれは知らん。40メートルぐらいはあったんじゃないですか。息 したら、荷物が軽いから、こんなに身体が出ちゃった。で、平泳ぎです。大きな淵が続い ているんです。それで、さっき落ちたところへ、上がろうか、上がりゃ、あの悪いところ をまた通らなくてはならない。落ちたところに足場がない。泳いでいるうちに考えたんで す。右岸に行けば右岸にも一カ所悪いところがあるんです。それで、心をきめて、左岸に 上がり、あわてて、リュックを広げたら、上の着替えのものはあまり濡れていないが、箱 を見たら、箱も濡れてないんです。助かったのかなと思って出したら、下の箱とリュック の間に水が溜まっていて、乾燥した魚は皆、水吸っていました。それをリュックに詰めて いると、相棒が下りてきた。「いや、曽根原さん、上がったかい」相棒もいいようがない。 「上がったよ」「よかったね」。でも、その濡れたのをよこせとはいわない。やっこさん も私が落ちた場所は知っているから、お互い命がけなんです。だから、人の荷物まで持つ ということは、とうていできない。「ああ、体も濡れたし、少しばかり持ってくれればい い」と思ったが、彼は途中に荷を置いて空身で下りてきたんです。それで、また落ちた場 所に来たら、岩が三角に残っているんです。その岩に乗ったら、また落ちそうになりまし たが、なんとか身体を直して、帰りました。

その落ちたときに腰をぶって、平の小屋にお昼について、川原の温泉に入って、垢を落 としました。平の小屋の外の小屋が火を焚くようになっとったから、佐伯さんに借りて薪 ももらって、濡れた魚を火棚に並べて一晩焚いたです。乾燥させて、箱詰めして、朝、平 を8時頃出たんですが、私は腰を打っちゃって、踏み切りができないんです。登るのに苦 労しました。相棒は、腹下して、5分か10分置きに便所に行くんです。私はびっこだし、 彼はそういう状態で、峠の小屋に着いたのは4時頃になりました。慎太郎さんの娘さんが やっとったから、病人に腹の薬もらいまして、彼はそこに泊めてもらうことにして、私は 大町に帰らなくてはならないので、峠を下り、大沢の小屋を7時頃出て、大町に着いたの はちょうど12時なんです。大町は15、16、17日がお祭りで、子供も待っているだ ろうということで、15日には下ってきました。

そういう話を最後にして、「国栄えて山河滅びる」という言葉で締めくくりたいと思い ます。長い間ありがとうございました。