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1996年6月1日
講師紹介
城山 邦紀 会員
講演
「詩人 西条八十」

「詩人 西條八十」

5期 城山 邦紀



ただいまご紹介いたただきました、城山です。
西條八束先生、林先生、大月長野県詩人協会会長、皆様の前でお話する任ではないので すが、早川先輩のご指名ですのでどうかお許しを頂きたいと思います。また文中は、敬称 略にさせて頂きます。西條先生から資料をお借りしまして、有り難うございます。

話を西條八十の生い立ちから早稲田大学教授、作品、人柄と晩年の3つに分けてお話を したいと思います。


《 生い立ちから早稲田大学教授まで 》

西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵 衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。父十 兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子に なりました。

明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸 工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。

西條八十は早稲田中学に入りまして、中学3年生の時に恩師の吉江喬松先生(弧雁)と 出会いまして、これが大変大きな出会いでした。吉江弧雁は、父は漢詩人の槻堂で塩尻市 で生まれました。松本中学校を卒業したあと早稲田大学の英文科に入学しまして、坪内逍 遙、島村抱月に師事しました。明治38年に卒業、明治41年に早稲田大学英文科講師・ 教授になりまして、作品には「自然美論」などがあげられます。

大正5年にフランスに留学して9年9月に帰国、早稲田大学のフランス文学料を創設い たしました。柔軟な感受性の人で、眼光一閃して物の本質に迫る繊細な人でありました。 この吉江弧雁先生が西條八十を大変可愛がってくれまして、箱根登山をした時には手を引 いてくれたり、野口雨情の家に連れて行ってくれたりしました。

西條八十は明治42年17歳で、早稲田大学の英文科へ入りました。ところが、学校が おもしろくなく2ヵ月でやめてしまいました。神田の正則英語学校へ行って英語を勉強し たり、九段の暁星中学校の夜間部でフランス語の初歩を勉強したりしまして、京都の三高 を受験しようとしていましたがこれをやめ、明治44年、早稲田大学の英文科へ再入学し ました。この時東京帝国大学も受験して、国文科専科生となりました。大正4年に早稲田 の英文科を卒業しまして、同級生には青野秀吉、直木三十五、木村毅などがおります。こ の頃、西條八十は早稲田大学へ東京帝大の帽子をかぶって、平気で通学していました(笑 い)。当時は女優の松井須磨子と恋愛中だった島村抱月教授の文学概論などを、二級上の 広津和郎と一緒に聞きました。ちなみに、松井須磨子は長野市松代町生まれで、「人形の 家」のノラ役で話題となりました。

大正5年に小川晴子さんと結婚しました。この小川晴子さんは新橋の蔵前工業会館前が 生家で製米問屋、人力車宿、料理屋などを経営していました。晴子は香川京子に似ている 美しい人で、晩年の八十は香川京子のファンでした。晴子の母方の祖母は、黒部の旧家の 出身です。この頃は、台所不如意で、天ぶら屋の天三を、銀座の天國の向こうをはって新 橋駅前で開いたが儲からず、株で大損をしたりしていた状況でありまして、二人は神田神 保町の健文館の2階に住みまして「英語青年」の編集をやってました。この頃、鈴木三重 吉が児童文芸誌「赤い鳥」に詩を書いてくれと、依頼に訪れました。同人に島崎藤村、芥 川龍之介、泉鏡花、徳田秋声、北原白秋などがおりました。北原白秋は年下の八十を大変 可愛がってくれまして「お稚児さんを愛撫するようにほおずりをした」というようなこと を長女の嫩子(ふたばこ)さんが書いていらっしゃいます。

大正8年6月28日、第一詩集「砂金」(尚文堂書店)を自費出版しまして、これは1 8版を重ねて1年で売り切れるという大変なベストセラーになりました。絢爛、繊細、冷 徹な象徴詩は当時の注目を集めました。

早稲田大学時代は吉江弧雁が仏文科創設のためパリに外遊中に、早稲田大学の教師にな りましたが、フランス語が出来なかったものですから近くにいたスイス人のシェリングさ んにフランス語を習いました。このシェリングさんが下宿していた家は医師池上作三さん の家で、佐藤栄作氏の夫人の叔父さんの家でした。佐藤栄作夫人は女学生の頃この家に下 宿していまして、西條八十の詩を愛読していました。池上氏は、「詩人はドンファンだか ら、近寄ってはいけない。」という話をしました。佐藤夫人はおきゃんな面があったよう で、襖ごしに西條八十が話をしている所を盗み聞きしたところ、兜町の話ばかりでおもし ろくなかったそうです(笑い)。この後、長女嫩子、次女慧子、長男八束さんのお子さん のうち大変不幸ながら、次女慧子さんが大正12年10月関東大震災の年に亡くなられま した。その翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソル ポンヌ大学で勉強いたしました。古典学部の聴講生で、マラルメ会会員となり、ヴァレリ イの講演を聞きましたが、八十はヴァレリイのサインを貰い損なったと、大変残念がって いました。カルチェ・ラタンでジャン・コクトーの「青春と罪悪」という講演も、聞いた ということです。

外遊中、大正13年11月19日、長男の八束先生が誕生なさいました。長女の嫩子さ んの「父 西條八十」(中央公論社)によると、「15年3月父が帰国して初対面のよち よち歩きの弟八束は、初めて見た見知らぬ人を恐れて、泣きべそをかいて逃げだしたとい う」。帰国後、早稲田大学で仏文学を教えまして、助教授から昭和6年に教授になりまし た。この時の生徒は、新庄嘉章、田村泰次郎、井上友一郎がいました。当時は学生が2〜 3人しかいない時もあり、早稲田大学前の喫茶店でフランス詩の講義をしたり、浅草の大 勝館へ映画鑑賞に行ったりしまして、なかなか人気のある先生でした。ところが当時、フ ランス文学部長兼教務主任をしていた反吉江派の谷崎精二教授に反発しまして、西條八十 は辞表を提出して終戦時まで20余年間にわたる大学人生活を、ここで終えたわけです。


《 作   品 》

2番目に作品についての話をいたします。お配りした資料を見ながらお話をします。全 集からコピーしたものがありますが、写真は大正8年処女詩集「砂金」を出版した頃のも のです。詩集「砂金」「見知らぬ愛人」「美しき喪失」3冊は、恩師吉江弧雁先生に捧げ ています。 詩集「砂金」の「芒の唄」を見ると、単に象徴詩というだけではわからない 良さがわかると思います。

    芒(すすき)を折りて 海を聴く 幽(かすか)にとほき 海を聴く。
    君と別(わか)れし 朝夕の 芒の中に 海を聴く。

さらに

    芒の中に 見いでしは 丹塗(にぬり)の小櫛(をぐし) きみが髪。

という所で、これは失恋の詩だということがわかりますね。

次の「假面」ですが人間の真実を見る詩人の言葉が、たった5行の中に少しも古くない 形で書かれています。「かなりや」は後ほどお話をします。「領土」は散文詩です。この 「領土」は私も初めて読んでびっくりしたのですが、後でゆっくり読んで頂きたいと思い ます。大変新しい、すばらしい散文詩です。今だってこんなことを書ける詩人はいません。 すごいです。ここまでが「砂金」です。「砂金」というのは純粋詩と童謡と散文詩の3つ の構成になっています。「かなりや」がここに入っています。

「柳沢和子に與ふ」というのは、「美しき喪失」という詩集に入っています。これも後 ほどお話をしますが最後の5行の

    をぢさんは、あなたと三歳(みっつ)ちがひの娘を
    日本へ残して来ました、
    あなたのいたいけな和服姿は
    ある夜のをぢさんの心を
    しみじみと痛ませる。

と書いてありますが、この辺は後ほど「かなりや」と一緒にお話します。
次の「毯と殿様」は童謡です。「コドモノクニ」「幼年倶楽部」に同時掲載され、昭和4 年中山晋平の作曲です。昭和4年ですよ。

資料の「かなりや」という所をご覧下さい。「かなりや」は大正7年「赤い鳥」に初出 題の時は「かなりあ」となっていましたが、「砂金」の収録の時には「かなりや」となっ ています。第二聯目の「背戸の小薮に埋(う)めましよか」を「背戸の小薮に埋(い)け ましよか」と「それもなりませぬ」を「それはなりませぬ」となっています。安西愛子、 川田孝子、古賀さと子さんらが、唄っております。

西條八十は、大正13年に書いた「現代童謡講座」(新潮社刊、1円20銭)の中で、 「童謡と唱歌」という所で書いています。つまり当時、「モシモシ亀よ、亀さんよ」「汽 笛一声新橋を」という童謡がありましたが、八十は「兎と亀」の歌は油断大敵という教訓 を与え、「鉄道唱歌」は地理の知識を易しく、面白く、児童に授けるという目的から作ら れていますが、これはどんなものでしょうか、と言っています。「童謡とはいえ、そうい う教訓的なものでなく、書かずにはいられない程の強い感興が沸き立たなくてはいけない。」 と言っています。「かなりや」がなぜ「モシモシ亀さんよ」や「鉄道唱歌」と違うかとい う所なのですが、これが西條八十にとっては大切な作品になっています。「あれは大正7 年10月初めに、上野の桜の葉が黄ばんで、やがては、ほろほろ落ち散るころであったと おもはれる。私はその頃、家族を神田の家に残して、ひとり不忍池のほとりの上野倶楽部 といふ、だいぶ古くなったアパートメント・ハウスの4階でくらしてゐた。」その時奥さ んが、生まれて5ヵ月になる長女の嫩子さんと訪れ、西條八十は嫩子さんを抱いて上野の 東照宮の境内を歩いていた時に、幼児のような心が湧いてきて「かなりや」の言葉がここ で出てきた。丁度その時に、西條八十は大変家計が苦しくて、母や妻や子や家族の安らか な生活の道をつけようとして、いろいろともがき続けて来ました。その為、わずかな資産 を様々な事業に投じ、今はほとんど全部失ってしまった上に、負債さえ残っています。

八十が中学3年生の時に、父が亡くなりまして、三男でしたけど家督相続人に任命され ます。ところが、兄が全部使ってしまいました。西條八十が大学を卒業する前の年、使い 果たして一家は投落してしまいました。その時、たったひとつ最後に残っていた父から譲 られた土地を、思い切って売り払いました。そうして負債を整理したあと、辛うじて幾ら かの金を手にしました。「今は改めてこの手にある金を残らず自分の本質の仕事に投げ込 んで見る、そして今まで自分の到底信じられなかった奇蹟 ― 芸術によって人が枉(ま) げられずに衣食することが出来る、その奇蹟が実現されるかどうかを見る」という状況で した。5カ月の嫩子さんを抱いて上野の山を歩いていた時、思い出したのがクリスマスの 夜の事なんだそうです。13、4歳の頃九段上のたしか番町教会といったその教会に来て いるのです。天井の一番てっペんの窪みにある電燈の中、1つだけ点いていない電燈があ りました。翌年行ったら、またそれが点いていませんでした。たぶんこれは高くて面倒く さいから、点けられなかったのだろうけども、「その球だけが楽しげなみんなの中で独り 継児(ままこ)扱いされているような、また多くの禽(とり)が賑やかに歌ひ交わしてゐ る間に、自分だけがふと歌ふべき唄を忘れた小鳥を見るやうな淋しい気持ちがしたのであっ た。」「東照宮の境内を歩いて、私はゆくりなく幼い日のさうしたデリカな記憶を呼び起 した。さうしてあの幅のひろい石階を下って上野倶楽部の自分の室へ戻るまでに、あの 『かなりや』の唄は半ば心のなかにまとまりかけてゐた。―― 」

「おもへばその頃の私自身こそ、実に『唄を忘れた金糸雀』でなくて何であったらう! 永い間私は自分の真実に生き行くべき途を外れ、徒らに岐路のみさまよひ歩いてゐた。商 売の群に入り、挨ふかい巷に錙銖(ししゅ)の利を争ってゐた当時の自分にも、折には得 意の時が無いでは無かったけれど、その心の底にふと自身が歌を忘れた詩人であることを 思ひ出すと、いつもたまらず寂しかった。

    唄を忘れた金糸雀は、後の山に棄てましよか。
    いえ、いえ、それはなりませぬ。

    唄を忘れた金糸雀は、背戸の小薮に埋けましよか。
    いえ、いえ、それもなりませぬ。

    唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましよか。
    いえ、いえ、それはかはいさう。

かく問ひかく答へる母子の声は、まさしく当時の私の胸の中に絶えずくりかえされてゐた 自問自責の声の象徴に他ならないのであった。然るに、やがて歳月の寛大な掌は、この哀 れな金糸雀に忘れた昔の唄を思ひ出す機縁を与へてくれた、私は遂に一箇の詩人として再 生した。今日でも私はこの謡を読むと、当時の自分の切迫緊張した心持が偲ばれて涙なし にはゐられない。さうしてその頃の悲壮な、板挟みとなった生活感動が、いつ知らず滲み 出てこの謡を生んだのであることを泌々(しみじみ)感ぜずにはゐられない。実に「かな りや」の謡は、私一箇にとっては感銘深い自叙伝の一節である。」
こういう風に言っております。

それからもう1つ「柳沢和子に與ふ」という大変立派な詩がありましたが、これは柳沢 健さんのお嬢さんです。柳沢健さんが昭和20年10月頃に書いた「印度洋の黄昏」とい う文章の中にこのように書いています。「予の娘の和子が三歳のとき、西條君は巴里に行 くことになった予の家族と一緒に、渡佛の途に上ったものである。同君はよく予のプール ヴァール・モンモランシイの家へ遣って来た。肉さえ食べさせれば常に満悦していた。」 そしてその時に、「柳沢和子に與ふ」という詩を書きました。嫩子さんは和子さんより、 3つ年上でした。「それから20年前後の歳月が流れ、同君のお嬢さんは他家に嫁(かた づ)き、間もなく予の和子も結婚式を挙げることになった。その結婚式の当日、披露の宴 の席上で西條君は、普通の式辞を述べる代わりに、この詩を朗読したものであった。そし て、後で唐紙にそれを淨書して、わざわざ送って呉れたものであった。」それが、この詩 であります。

さらに西條八十には、これらの詩の他に訳詩が多くありまして、「白孔雀」などが代表 的な訳詩集として出ております。さらにみなさんが知っているように、歌謡が大変多いの です。

昭和3年4月「当世銀座節」(中山晋平 作曲)をきっかけに、
昭和4年  「東京行進曲」「お菓子と娘」「愛して頂戴」
昭和6年  「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」
昭和7年  「銀座の柳」「丸の内音頭」
昭和8年  「サーカスの歌」「東京音頭」
昭和13年 「同期の桜」「支那の夜」
昭和15年 「誰か故郷を想はざる」「蘇州夜曲」
昭和18年 「若鷲の歌」
昭和23年 「恋の曼珠沙華」
昭和24年 「トンコ節」「青い山脈」「花も嵐も」
昭和27年 「こんな私じゃなかったに」「娘十九はまだ純情よ」「ゲイシャ・ワルツ」
昭和29年 「ピレネェの山の男」
昭和36年 「王将」
昭和43年 「銀座音頭」

西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇が いわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。大変立派なものであります。 西條八十は「芸術とは人生に対する真剣な感動が盛り込まれていなければならぬ」と言っ ていまして、この歌謡の中でも例えば「旅のつばくら淋しかないか」ですが、これはフラ ンスの女流詩人の「旅の燕は私の心の夢で、あなたについていく」がヒントになっていて 私だったら「旅のつばくろ淋しくないか」となってしまうところ、「 ― つばくら淋しか ― 」となるのは、さすがです。らとかの明るいはずのあ音が、歌うと(古賀政男作曲) 深く澄んだ寂蓼となって響きます。

昭和4年に朝日新聞大阪本社の依頼で、1ヵ月程民謡を探る旅をしました。新聞に連載 したのですが、その時に「黒田節」の「酒は飲め飲め 飲むならば」というけれど、これ は本当は「酒は呑むべし 呑むなれば」というのが高井知定の元唄でありまして、「黒田 節」ではなく、「黒田武士」が原典です。これを地方紙の女性記者が、勝手に「節」にし てしまったというので、西條八十が憤慨しています。「新聞社、けしからん。」わかりま すね。「武士」の方ならば、「酒は呑むべし 呑むなれば」となります。それから「二人 は若い」という歌がありますが、「あなたと呼べば  あなたと答える 山の木霊の嬉し さよ」これは玉川暎二作となっていますが、西條の「現代童謡講座」の本によると西條八 十の「谺」があります。「『愛す?』と問えば『愛す』と答う山の谺の懐かしさ」これを 「愛す」の代わりに「あなた」、「愛すと答える」代わりに「あなたと答える」、「山の 谺の懐かしさ」のかわりに「山の木霊の嬉しさよ」となっています。西條八十先生はこれ はサトウ・ハチローのいたずらだと言って、決して怒っていないんですね。「黒田節」に ついては怒っていたけれど・・・。八十とハチロー、さすが大物同士です。西條八十は、 「詩を書くにはあらゆる文字を全部知らなくてはいけない」と言って「国語漢文新辞典」 を一頁一頁暗記して、二年間続けました。

「誰か故郷を想はざる」の二番、「ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣 いた涙のなつかしさ」は、15歳の中学生の時に二つ違いの大好きな西條八十のお姉さん が、関西へ嫁いだ時のイメージです。「ひとりの姉」とはお姉さんの事です。「小川の岸 で・・・」小川なんてありません。西條八十は新橋のプラットホームのかげで、涙を流し ました。でも新橋のプラットホームではと言うので「小川の岸で」となっています。

こういう童謡、民謡の他に山の歌も作っています。例えば、俗称「早稲田針の木遭難の 歌」正式には、「北アルプスの犠牲 ― 針の木峠に遭難せる若き人々を悼みて ― 」。 針の木というのは、ここから鹿島槍の双耳峰が見えますが、その右奥にあたります。黒部 のロープウェイに乗ると、間近に見えます。「針の木遭難」というのは早稲田では大変有 名な遭難ですが、昭和2年に11人の早稲田の山岳部の連中がスキーをかついで山へ入り ました。針の木の大雪渓で、スキーをやるということでした。昭和2年12月30日午前 11時5分頃、本谷が赤石沢に合しよう、という地点通称ノドという狭い所で、丁度大沢 の小屋から十町ばかり上まで達した時でした。ラッセルの渡辺氏が5回目かのキック・タ ーンをしようとした矢先、2番目にいるリーダーの近藤氏は自分の目の前で渡辺氏のスキ ーがくるりと右に回りかけたのを目撃した瞬間、ゴーッという底気味の悪い風のようなう なり音を耳にしました。「雪崩かもしれないぞ」―― はっと、右足を引くと同時に、近 藤氏は半ば無意識に「来たぞーッ!」と叫びました。しかし時はもう遅かったのです。幅 四十間、高さ一丈に余る大雪崩が、真に一瞬にして、彼等全員を呑み去ってしまったので した。さっと一時に押し流されはしました。しかし幸いにして、ラストの河津氏と、第十 番目の有田氏だけは、雪に埋殺される事をまぬかれました。見るとリーダーの近藤氏は、 首だけ雪の上に突き出していました。河津、有田の二氏は、まずリーダーを掘ろうとしま した。が、近藤氏は頑として「僕はいい。ほかの連中を助けてくれ。」と言うのでした。 傍らを見ると、山田氏が肩から先を現してあがいていました。二人はただちに山田氏を掘 りました。四番江口氏は雪の下に入ってしまっていて、スキーの破片一つにより「ここを 掘れ」という事で掘ったら、雪の下二尺五寸程の地点に既に血の気を失った、土色の手が 一本ニューと現れました。これが四番目江口新造氏の手で、仮死の状態で発見され、生き 返りました。リーダーの近藤氏は、自分で掘り出てきました(春日俊吉傑作選「山に逝け る人々」(後編)、森林書房)。「雪崩」というのは、止まる時ギューと圧縮されますか ら、いくら首から上が出ているとはいえ、自分で掘るのは大変な事ですが、それを頑とし て断り「他を助けろ」と言ったリーダーでありました。4人の友は雪深く埋まったまま、 発見されなかったのです。昭和3年1月元旦に百瀬慎太郎さんはじめ、皆さんが山に入り ましておトソも年賀も忘れてスコップを動かしたけれども、発見されず打ち切り、5月に やっと発見されました。

こういう中で西條八十がどういう詞を作ったのか、大変興味深いところですが、春日俊 吉さんは当時新聞社にいまして、その時赤倉にスキーに来ていましたが、スキーをほっぽ らかして現場へ駆けつけた関係で、東京へ帰ってから詩人西條八十に乞うて作詞を受け、 山田耕筰を煩わして曲譜をもらい、「北アルプスの犠牲」一篇を得て、大隈会館で催され た追悼記念会席上で、これを披露しました。西條八十はどのような詞を書いたかというと、
一番目は、

    吹雪はやみて 月は出でぬ
    とぼそ ほとほと 打つは風か
    ほた火 悲しく 燃ゆる夜半を
    帰れ友よ 我ら待てり ―――――― 曲もすごくいいですね。

「吹雪はやみて 月は出でぬ」というだけで全て見えます。猛烈にふぶいた吹雪がサァー と止んだら、煌々たる月が白い雪山を照らしています。神々しいまでに、照らしているの です。「とぼそ ほとほと 打つは風か」。「とぼそ」は戸のことです。「打つは風か。」 風が打つ、ではいけないのです。仲間が帰って戸を打っているのだろうか、遠い叫び声な のだろうか、というイメージがあります。「ほた火 悲しく 燃ゆる夜半を」とあります。 「ほた火」は焚き火のことで、ほた火とは「榾火」と書きます。この中で「ほ」という音 がよく使われていますがこの「ほ」という言葉で、幽玄な淋しさ、深さを出しています。
最後の6番、

    北アルプスの 雪の峰々
    融けてながるる 春とならば
    咲けよ駒草 紅にもえて
    若き四人の 霊のために

その地帯は駒草の群生地で、5月には駒草が咲きます。だからこの歌の最後には、「咲け よ駒草 紅に燃えて」という言葉が入っています。大変素晴らしい詞です。「針の木遭難 の歌」はこういう感じがいたします。

さらに、「天に二つの日あるなし」というのがありますが、長野県詩人協会会長の大月 さん!「天に二つの日あるなし」なんて、凄い言葉ですね。(大月さん、瞑目したままう なずく)。

これら作詩の他に、昭和42年中央公論社刊「アルチュール・ランボオの研究」があり ます。アルチュール・ランボオは、詩人のヴェルレーヌに溺愛され、嫉妬され、ピストル で撃たれたのですが、あやうく難を逃れました。ランボオは詩作のあと、鉄砲売買人、奴 隷売買人となり砂漠で果てたのです。「詩人というのは商売も立派だ」と、西條八十は書 いています。これらが作品であります。


《 人柄と晩年 》

最後に人柄と晩年について話をします。
三井嫩子さんが書いた本によりますと、「西條八十は、誠にわがままなやんちゃ妨主で 手がかかり、芸術家肌で世間に誤解されやすいこの純粋な人」。また、「反骨の人であっ た父は、権威や時流に媚びることを一番憎んで、オリジナリティを持たぬ人々は歯牙にも かけなかった。」「世間では華やかな人と言われているが、事実の父は人嫌いで、一人で 花や鳥の声の中にたたずんでいたいような人であった。それゆえに、生きている間は誤解 された。父は孤独に満足して生きつづけていたようだ」。

長女の嫩子さんに対する躾けですが、「母の私に対する躾けは厳格で、夕方5時以後の 外出は厳禁、従兄に映画に誘われても、弟八束をお供につけて出しました。」
本当ですか? 八束先生。(八束先生、微苦笑)。
嫩子が結婚する時も、「私の結婚式の前夜、父は私を呼んで、ずいぶん大きな覚悟をした らしく、真剣な表情で、私を机の前に坐るようにうながした。
「嫩子、結婚ってどういうことか知ってるかね」
「知りません。ただ努力の連続ではないかと思っています・・・」
「そんな意味だけでない、今までのような童話の中の少女ではすまされない筈だ。知らな い生活が待っている・・・」
「雑誌に医学的に書いてあったようですが、うっとうしいので読みませんでした」
 すると、父は急に少年のように顔をあからめてしまった。
「まあ、いい、お前の性格そのまま、素直にやればなんとかなるだろう。いやだったら、 いつでも帰っておいで・・・」
と、それきり、父の方から先に部屋から出ていってしまった」。

奥様が、64歳で亡くなってから10年間、八十は一人で生きましたが、「私の妻は、 生きている間は僕の母で、死んでからは恋人になってしまった」。八十は部屋に奥様の写 真を3枚置いていました。生前西條八十は、女性問題が華やかでして、奥さんは大変ご苦 労なさったようです。「かなりや」の歌も嫩子さんは、「父の女性問題に悩んだ母の思い 出があって、私にはかなりやの歌は辛い匂いがする。」と言っています。堀口大学は八十 のことをこのように言ったのです。「君はわがままをしているけれども、もし君より先に 奥さんを失えば、どんなに激しく思い詰めるだろう。君は、失ったものを一番愛する人だ から。」嫩子さんは父を見て、「人々の心を美しく震撼させることこそ詩人の使命」と言 っていまして、西條八十が一番嫌ったのはあらわなポーズであり、らしく見える、見えさ せるということでした。「自分は詩人だと言って、人生で乱痴気騒ぎをする奴は嫌いだ。」 と言っていたそうです。両親は、いつも素直であるようにと教えてくれまして「詩人であ る前に、人間であれ。」という風に言っています。

八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。喉頭ガンをわずらっていま した。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼 申し上げます。 西條八十」
詩人芸術院会員西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前 4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。謹んで辱知 の皆様に御通知申し上げます。
               葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束
               女     三井 嫩子
西條八十は生前、「僕が死んだら絶対に告別式をしてくれるな。告別式くらいみんなに迷 惑をかけて、形式的なつまらないものはない。詩人は人生の香水であり、煙であり、霧で あるのだ。存在を明確にしては意味がない。」と言っていました。しかし、八束さん達の 意見を尊重して、簡素な葬儀をなさいました。墓碑(千葉県 松戸市 八柱(やはしら) 霊園)に刻まれた、八十の文字があります。これは、モーパッサンの墓碑からヒントを得 まして、書物を開いたような形の墓石に、自筆で書いてあります。

     われらたのしく ここにねむる
     離ればなれに生れ めぐりあひ
     短き時を愛に生きしふたり 悲しく別れたれど
     ここにまた心となりて とこしへに寄りそひねむる 西條八十

生前までは朱色だった八十の名前は、その時奥様と同じく、白い色にされました。

私事ですが、丁度34年前に三井嫩子さんの家に詩の原稿を頂きに行ったことがありま して、成城の西條八十の家の前をわざわざ通って、嫩子さんの家に行きました。原稿を頂 いて帰ったのですが、大変優しい方で、原稿の封筒にピンク色のリボンがつけてあり、次 に行くと「今度は何にしましょう。赤がいい?緑がいい?」と・・・。

当時、お嬢さんの紘子(ひろこ)さんは、早稲田大学の1年生でありました。嫩子さん が生きていらっしゃれば、丁度、78歳になられます。西條八十が亡くなられた歳と、同 じになります。しかもこの年に、八束先生の前でこのようなお話が出来るのも、何か不思 議な縁を感じざるをえません。ありがとうございました。

付記。大月玄氏(長野県詩人協会会長)は、カルチャーから70日後の8月9日、心不 全のため68歳で永眠されました。合掌。


              北アルプスの犠牲
         ― 針の木峠に遭難せる若き人々を悼みて ―
                     西条八十作詞
                     山田耕筰作曲

        1 吹雪はやみて 月は出でぬ
            とぼそ ほとほと 打つは風か
          ほた火 悲しく 燃ゆる夜半を
            帰れ友よ 我ら待てり
        2 北アルプスの岳の雪に
            映ゆる朝日の影あびて
          唱いし友よ おおし友よ
            あわれ君は いづち行きし
        3 きのうはここにありし面影
            きのうはここに聴きし声音
          今は涙の 山の小屋に
            帰れ 友が母も待てり
        4 遠き昔のエンディミオン
            月の女神の深き愛に
          不死のねむりに入りし如く
            山は奪いぬ美し子らを
        5 我ら七人 生き永らへ
            悲しく雪の上をさまよう
          血肉は破れ 声はかれぬ
            されど 返らぬ 四つのみ霊
        6 北アルプスの雪の峰々
            融けてながるる春とならば
          咲けよ駒草 紅にもえて
            若き四人の霊のために