父の思い出○○○

石原 道子

 私の父は「林 實(まこと)」といい、とても変わった人でした。今で考えればたくさんの方のお役にたっていたとも思えますが、反対にご迷惑もかけていたので、もし嫌だったと思われていらっしゃる方には最初にお詫びしておきます。

 私は1人娘でとてもかわいがられて育てられました。でも結婚するまでいつも父が嫌で嫌でたまりませんでした。大正8年生まれなのに背の高さが186センチ、足の大きさも28センチもあり、大きな手と仁王立ちの印象は見るからに存在感がありました。声も大きく、講演を仕事にしていたので張りのある良く通る声でした。それから思ったことはお腹の中にためておけず、すぐに注意するくせがありました。家族でレストランに行ったとしてもボーイさんに文句を言う(本人は教えてあげているつもり・・??)のでちっともリラックスして食事ができないのです。

 私が24歳の時にロンドンへ数ヶ月滞在した事がありました。夏休みになると父と母は2人でロンドンにやってきました。3人でヨーロッパを周ろうと計画をして私も最初で最後の親孝行だとはりきりました。
もちろん費用はあちら持ちですが・・。ある日、ロンドンのシティに小さなフランス料理の店があり、そこが美味しいということを教えてもらって3人でお昼のランチを食べに行ったのです。まだイギリスではランチでフランス料理など食べるのはあまり聞かないことでした。席に付き食事が始まると、案の定・・ボーイさんをじろじろ見てなんだかんだ言い始めるのです。そしてへんな英語でボーイさんに話しかけるのです。でも最後に「とても美味しくってボーイさんもオーナーも感じよく丁寧だった」ことをやたらに誉めて、母とやれやれ思っていたところ、チップを出す時になって「道子、とても良い店なので、チップを『フィフティパーセント』置きなさい。」と言うのです。エエッツ? 50パーセントも?・・と私は思って「そんなにいらないよ」と答えたところなんと平手打ちをされてしまいました。もちろん店の主人もあっけにとられお客さんたちも見ていました。私は無言で食事代金と5割のチップをテーブルの上に置いてそそくさと店から出ました。チップは10パーセント置けばいいのですが、「少し多めで15パーセントあげたい」と思った父は日本語で言ってくれればいいのに『フィフティーン』を『フィフティ』と英語で間違えて言ったのです。私もきがつかなかったことから、疲れきっていた父が怒ったという事件でした。今ごろではチップの制度もだんだん薄れてきて、チップを出すと気取っていると思われることもあるそうですね?私には難しくてよくわかりませんが・・・

 父は母とお見合い結婚です。母から聞いた話ですが、お見合いの日には母は父の大きい体格がいやだったので断ろうと思っていたそうです。その日に自宅(慶應大学のある日吉・・そのころは田舎だった)に帰ると母の母(私の祖母)は「わがままな性格そうだから、お仲人さんに断りをいれよう」といったそうです。
そしてもう嫌っていたそうです。そして祖父が帰宅して夕食が始まり、お見合いの話になり祖父は、「仲人の話では『お国のためにお役にたちたいので結婚はまだしたくない』と言っていたが、無理にお見合いさせたらしいよ・・」と祖父は同僚からの紹介だった父を気に入り残念がっていて、祖母は嫌だったので喜んでいたというのです。・・・そんな会話をしていた食事の最中に、誰かが玄関の引き戸を開ける音がし「ごめんください」と父が来たそうです。父はお見合いをした女性の家を見に、帰る方向とは逆の日吉まで行き、あげく夕飯時にあがりこみ食べて帰ったのです。そのことを祖母は「非常識」だと怒ったそうです。それから毎日父は仕事が終わると日吉の家により、夕食を食べてかえったので、叔母などもあきれたそうですが、「来るだろうと食事を準備しておいた」とも言っていました。その後、結婚をしたのですが祖母と父はその後もずっと仲が悪かったです。

 父は性格的には目立ちたがりで、もし今の時代に生まれていたならば役者か司会業でもしてマスコミにでていたかもしれません。ところが実際には「縁の下の力持ち」という役回りで大きなプロジェクトや学校でも人しれずに提案をして実現させ、功績は他人に譲っていました。私の名前の「道子」は父が役所に勤めていて、中央自動車道の計画をたて、法案が国会をとおったお祝いに名付けてくれたのです。名前を付けるときも大きな紙に大きな字で親戚の名前を書きだし、重ならないように、また似たような名前にならないように、同じ漢字を使わないように・・とつけたので見ている方が大変だったと母が言ってました。

 ホテル学校で教えだした時は、真剣に「日本のホテル業界を背負う若人を欧米なみに追いつき追い越させたい」と熱心に準備をしていました。つい熱が入り情にほだされて自宅に朝早くから呼びつけられた学生さんには本当に大変だっただろうと思っていますが、、、学校では教えられない事を密接に指導できたのではないでしょうか?感が鋭いので、ごまかしがきかないところがあるのです。

 今を思えばもう少し長生きをして孫の顔でもみてくれれば、温厚なよいおじいさん役を引き受けてくれただろうと残念に思うばかりです。丁度、父のお葬式の日に気分が悪いと思っていたところ『つわり』だったことがわかり、その時のお腹の中の子も成長し、高校2年生になりました。非常に父に似ていて、大きな声で快活に話し、一度物事にのめりこむと熱中する姿は父にそっくりです。

2001年8月 



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