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1997年5月31日
講演
「北アルプス開拓の先駆者 百瀬慎太郎」

「北アルプス開拓の先駆者 百瀬慎太郎」

石原 きくよ


<百瀬慎太郎の業績>

なにぶん大勢のかたたちの前で話をするのが、始めてなものですから、上手に話ができ るかどうかとても不安なんですけれども、どうぞよろしくお願いいたします。

後ほど、曽根原文平さんが、曽根原さんはとてもお話の上手な方ですので、おもしろい お話が聞けるのではないかと思います。

私のほうは、百瀬慎太郎のプロフィールといいますか、百瀬慎太郎さんの人生の柱のよう なものについて大まかな点をお話しさせていただければと思っております。

明日、慎太郎祭に行かれるかたもいらっしゃると思いますが、大町に昔、対山館という 旅館がありまして、その旅館の館主として、黎明期の日本の登山史を縁の下から支えてい たというか、登山史に下から貢献なさっていたかたなんです。

ところが、今では、地元のかたたちでも、ことに若い人たちは、百瀬慎太郎という名前 もあまり知らないという事も多く、なんとかこの名前を後世に残していきたいなあという 動きが地元の中でもあります。だんだん忘れがちな名前になってきている百瀬慎太郎さん なわけなんですけれど、かつては、百瀬慎太郎と対山館の名前を知らないのは、もぐりで はないかというくらいに、山をやる方はだれでもがよく知っていた名前で、北アルプスを 歩かれた皆さんの紀行文ですとかね、随筆の中に必ずといっていいくらいに、「対山館」 と、「百瀬慎太郎」の名前がいたるところに登場しているわけなんです。

具体的に百瀬慎太郎さんがどのようなことをしてきたかといいますと、まず一つには、 日本で初めて、登山案内人組合を大町に創って、山案内人を育成することに努めたという ことがありますね。

それと、積雪期の立山針ノ木峠を越えて、これだけでも当時としてはたいへんな内容だ ったわけなんですけれども、そのときに冬山映画を撮りまして、日本初の冬山映画だった わけですけれども、それを撮るのに協力したということがあります。

それから昨年西条八十さんのお話のときにも出てきたと思いますけれども、早稲田大学 の山岳部のかたたちが篭川谷で雪崩にあって、遭難されたという悲しい事故がありました けれども、そのときに対山館の館主として力を尽くされた。

それからその他に、針ノ木大沢小屋を造って登山者のために便宜をはかったということ がありますね。

それから、大町の観光のために山を通じて、大町の観光を発展させようと努めたという ことがあります。

それからその他に、なかなかの文学青年だったものですから、若山牧水の歌に師事した こともおありで、生涯を通じて、短歌をなさっておられて、数多い優れた歌を残しておら れます。


<慎太郎の生い立ち>

慎太郎の生い立ちなんですけれども、百瀬慎太郎が生まれたのは明治25年のことでご ざいました。 大町の対山館、当時は屋号で呼ばれていましたので、大町の人たちは対山館 なんて言わないで、「(人+丁)やまちょう」と言ったわけなんですけれどもね。 お父さんの名前は金吾といいまして、穏やかで静かなかただったようです。
百瀬慎太郎は

  無口なるわが父君が今日もまた活花すとて部屋ごもりせり

という短歌を残しておりますので、静かに生け花などをたしなむようなかただったんじゃないかと思います。また誠実でたいへん面倒見のよいかたでね、北安文雅会というような、 これは絵の観賞をする会だったんですけど、そういうものを創って、当時の文化の発展に 努めたと、そのようなこともおありでした。

お母さんは松本藩の、おかかえのお医者さまの娘だったんですね。漢文の素養なんかも おありで、何気ないときに漢詩を口ずさんでいたりとか、そんなようなこともあったよう です。

そういう雰囲気の中で、慎太郎も育ったきたわけなんですね。慎太郎は文学青年だった わけで、読書もかなりしてたんですけれども、そういうのは対山館にやってくるお客さん たちからの影響もあったわけですけども、それとはまた別に、お父さんやお母さんのかも しだす雰囲気といいますか、ご両親からの影響もあったんじゃないかと思います。

慎太郎は「やまちょう」という家に生まれたわけなんですけれども、この「やまちょう」 は、もともと旅館ではなかったわけなんです。旅館になって対山館という名前をつけたん ですけれども、代々は問屋取継ぎということを商売としておりまして、問屋取継ぎという のは今でいえば、郵便局と運送屋さんの兼ね合わせたようなものといいますかね、そんな ような商いだったわけなんですけれども、大町に大火事がありまして、@の家のあたりも 全部焼けてしまったわけなんですね。火事の後に、お父さんの金吾が商売換えをしまして、 旅館をやるってことで、対山館をはじめたわけなんです。

ちょうどそのころは、登山の黎明期になっておりました。皆様よくご存知のウォルター ・ウエストン、上高地で、開山祭なんかありますけど、ウォルター・ウエストンがちょう ど対山館へやってきて、泊まるわけなんですけども、それは、旅館ができたてのころで、 対山館は3階建てだったんですけれども、一番上のところはまだ内装工事が終わっていな くて、大工さんが入っていたというような記述が、ウォルター・ウエストンの文章の中に あります。ちょうど対山館ができて、2年目の明治25年に、慎太郎が生まれたわけなんです。


<登山黎明期と対山館>

ウエストンが来たのは明治26年ですね。日本の登山の黎明期で、ウォルター・ウエス トンは近代登山の発展につくされたのですが、その登山が発展していく背景としては、当 時日清戦争が終わって、その日清戦争によって日本の資本主義がものすごい勢いで発展を していたわけなんですね。資本主義の発展によって経済力が蓄えられてきた。それと同時 に、日本は外国の文化を一生懸命吸収して、少しでも外国に近づこうみたいな風潮があり ましたから、登山なんかも外国の文化の一つとして、一生懸命当時の文化人たちは山に親 しもうとしていたわけなんです。

対山館は北アルプス登山口の大町の旅館であったわけなものですから、そういうかたた ちが皆、対山館に宿を取って、そこで準備をしてから、出かけたわけなんですね。今みた いに電車でやってきて、すぐにそのまま山に入るということはとてもできなかったわけな んです。

当時の大町といいますのは、私の本の表紙に斉藤清さんという板絵画家のかたが作って 下さった絵なんですけども、これは屋根なんですね。板屋根といいまして、板で葺いたと ころに石を置いて、飛ばないようにしてあるんですけども、こういう屋根が軒並み並んで いまして、対山館はこうした低い屋根の中にひときわ高くでぇーんと3階建ての建物でそ びえていたわけなんです。だからたぶん対山館ができたばっかりのころは、いまでいうな らば田舎の町に突然りっぱなすごいホテルが建ったとそういうような雰囲気だったんじゃ ないかなと思います。

大町も今は町川は道路の下にうまってしまっているんですけれども、当時は水道なんか なかったものですから、町のまんなかを飲み水にも使えるきれいな川が流れていまして、 その両側を柳の並木がずっと続いているというようなたいへん風情のある町並みだったよ うです。


<慎太郎のヤケドと子供時代>

ウォルター・ウエストンが対山館にやってきたとき、慎太郎はまだ生まれだばかりだっ たんですけれども、初めての対山館の男の子だったので、たいへん可愛がられて跡取りと して、ほんとうにちやほやされて育ったようです。それがたいへん悲しい事件がありまし て、ちょうど2歳のときですね−ウエストンがやってきた次の年になりますか−囲炉裏に 落ちて、火傷をしまして−一説によりますと子守りの女の子が近所に遊びに行ってちょっ と目を放したすきに、慎太郎がヨチヨチしていたものですから、そのまま囲炉裏の中に落 込んでしまったというような話なんですけども−もう、身体中火傷をして、手の皮なんか すっぽり手袋のように脱げるくらいだったっていうことなんです。身体の3分の2焼ける と、命が危ないから、これは助からないだろうというふうにいわれていたんですけれども、 慎太郎の叔父さんに斉藤さんというかたがいらっしゃるんですけれども、このかたが火傷 のたいへんな名医でして、この人の力によって奇跡的に慎太郎は命をとりとめることがで きたわけなんです。命はとりとめたんですけれども、どうしても大きな火傷ですから、こ めかみに火傷の傷跡ってものが少し残ってしまったわけなんですね、そして、右目は光を 失うことになってしまいました。

慎太郎はたいへん凛々しいハンサムな人でありまして、たとえば好日山荘の西岡和行さ んというかたの文章の中に、「はでな鎧を着せ一筋大身の槍をにぎらせたらさぞ凛々しい 若武者ができるだろう」というような文章があるんですけれども、とても美しい人であっ ただけに、どうしてもご自分の心の中にも火傷の傷跡っていうんですか、そういうのは生 涯つきまとっていたようです。

そういう火傷を負ったということもありまして、ご両親は余計に慎太郎を可愛がったわ けなんですね。それでかなり子供時代はわがままなところもありまして、あるときなんか は気にいらないことがあって、足でお膳を蹴飛ばしたらしいんですね。で、お祖父さんが そんなことをしてはいけないって怒りますと、こんどはお膳を全部持上げて、そのまま土 間へ持っていって、ガシャンと投げ捨てたというようなね、そういうかなり激しいところ があったようなんです。

物を投げ捨てるという癖は、生涯直ることがなかったようでございまして、大人になっ ても絶えず飛び交ったようです。おうちのかたの話によりますと、お皿やお茶碗だとかね、 そういうようなものが、奥さんのやることが何か気にいらなかったりとか、使用人の人た ちのやることが気にいらなかったりすると、すぐ物を投げ捨てて、壁にガシャンとあてて 割ったりとかね、土間に投げつけたりとかそんなようなことがあったようでして、一番大 きいのになりますと、最後に対山館ってものが、だんだんご商売がいけなくなって、やめ ることになるんですけれども、慎太郎はそんなに商売のほうは熱心ではなかったものです から、後はお嬢様が実際の切り盛りはなさっていたんですね。で、お嬢様たちが、もうい けなくなったから対山館をこれでやめるようにしたらどうかと思うんだけれどもっていう ような話を慎太郎にしたんだそうです。そうしましたら、慎太郎がとても怒りまして、そ ばにあった大きな九谷焼のとても高価な壷だったんだそうですけれども、それをよいしょ と持上げてって、土間へ持ってって、ガシャンと投げつけたっていうんですね。ただ、投 げつけるっていうのは、その九谷焼の壷を投げつけたのが一番最後でしたねえ、なんてい うふうにお嬢さんが言っていらっしゃいましたけれどもね。そんなふうにいろいろ激しい ところもあったかたなんですけれども、また、やってくる岳人のかたたちの印象は決して そういうようなものではなかったらしくて、百瀬慎太郎というかたはとても穏やかで、物 静かなかただったったいうふうにとらえてらっしゃるかたが多かったようです。だからう ちの人には怖い人だったけれども、お客様というかよそのかたたちにとってはなかなか面 倒見のよいかただったんじゃないでしょうか。


<はじめての山>

で、この慎太郎がだんだん山に登るようになるわけなんですけれども、慎太郎が初めて 登った山というのは、白馬岳でございまして、中学2年の夏にお友達3人と白馬岳に登山 したわけなんですね。日本山岳会というのがありますが、その発足した次の年になります。 慎太郎が山に登る、白馬岳に登るきっかけというのが、対山館のお客さんに佐藤さんとい うかたがいらっしゃいまして、ちょうどこのころ富国強兵策で、白馬岳のところで、銅山 が開発されていたわけなんです。佐藤さんというかたはそこの技師をなさっていたかたな んですけれども、自分は白馬のほうにいるからぜひ山はいいところだから遊びにおいでっ ていうようなことだったんじゃないかと思います。

それで、慎太郎たちは、今みたいに大糸線はないわけですから、大町からてくてく歩い て、白馬、当時は四ツ谷村といったわけなんですけれども、そこまで行くわけなんですね。 そこで、ようやく歩いて行って、白馬に着いて、一休みしようというわけで、やまき旅館、 今でいいます、白馬館ですね、当時はやまき旅館といったんですけれども、そこにたどり 着いて、一休みさせてもらおうと思ったわけなんです。そしたら、そこの旅館の当時の若 いかたたちがいらっしゃらなくて、おばあさんが一人で留守番をなさっていたということ なんです。そうしましたら、おばあさんが怒るわけなんですね。
「おめ様だちはこれから岳に登るだか」ていうわけなんです。
山って言わないんです、当時はね、地元の人たちは「岳(たけ)」って言ったんですね。 「岳へなんか登りゃあ、岳が荒れて困るで、そんなとこ登るんじゃねえ」て怒るわけなん ですね。

昔はそういう何て言うんですか、ことにお年寄りのかたたちなんかは、原始的な山岳信 仰っていいますか、山は入るべきものじゃないとか、高い山はとても貴いものだから、そ ーっとしておかなければいけないといったところがありましてね、当時、武田久吉さんで すとかね、志村鳥嶺さんといったような方がいらっしゃるんですけれども、そういったか たたちが山に登ろうとしたときにも、地元民の抵抗にあったというような話もお聞きしま す。そういう名残があって、ことにおばあさんだったから、そんなようなことだったんじ ゃないかと思います。

そんなわけで一休みできなくて、てくてく歩いて、ようやく白馬 岳の入口に着いて、白馬岳に登るわけなんですけれども、登りはじめましたらね、これが 本当におばあさんの言ったとおりかどうか知らないんですけれども、だんだん山が荒れて きまして、天候がとても悪くなってしまったわけなんです。

それで結局慎太郎たちは、白馬の山の山小屋っていうか、今みたいなりっぱな小屋があ ったわけではなくって、当時は猿小屋っていいましてね、ちょっとした岩小屋みたいなと ころへ、はい松の枝ですとか、油紙をこうやって差し掛けて、テントにちょっと毛の生え たようなものですか、そんなようなものを作ってあったんですけれども、そこの中で2日 間、雨をしのいでいたわけなんです。

今と違って、服装もしっかりしたものじゃないわけなんですね。上はかすりの一重で、 下は半ズボンっていうんですか、そんなようなものを履いて、ゲートルをまいて、で、わ らじ履きで行って、防寒具といえば、中学へ行くための外套ですね、そんなようなものだ けだったわけですから、たいへん寒かったんじゃかいかなと思うわけなんですけれどもね。

それでも3日目になりますとたいへん、天気がよくなりまして、それで快晴の中を白馬 の頂上に立ったわけなんです。ところが雨上がりの天気のいいときですから、とっても風 景がきれいなんですね。慎太郎が言うには、「天地の悠久と大自然の荘厳さに驚愕した」 ということなんですが、そのくらいにものすごい感動を受けて帰ってきたわけなんです。

で、その山の上での感動を持ち帰ったとともに、もう一つお土産をもらってくるんです ね、その白馬岳にいた佐藤さん、さっき山登りをするように勧めたかたから、日本山岳会 の機関誌に「山岳」というのがあるんですけれども、それがちょうどその年に創刊された ばっかりで、その「山岳」の2号−慎太郎さんの文章には3号を貰ったってなっています けれども、おそらく、時期的にいって、2号だったんじゃないかと思うんですけれどもね −その「山岳」の2号を貰って帰ってくるわけなんです。

で、山の上で受けた感動とあいまって、慎太郎は「山岳」をくり返しくり返しよむうち に、山というものにしだいに引かれていくわけなんですね、で、その「山岳」っていう雑 誌も自分で今度は取り寄せて、定期購読するようになるわけです。で、「山岳」を通じて、 百瀬慎太郎は山のいろいろな知識ですとか、当時の小島烏水をはじめとする登山家のかた たちの名前ですとか山についての活動を知っていきました。またそういったかたたちが対 山館へ泊に来るわけなんですから、ますます山へのあこがれを強くしていったようです。

そういう出会いの中に辻村伊助というかたがいらっしゃいます。ご存知のかたも多いと 思います。「スイス日記」とか「ハイランド」とかそういう随筆を残していらっしゃるか たですけれども、ことにそのかたなんかから、文学的な造詣の深かったかたですから、最 新の文学的な情報を得ることができたようです。

当時は都会からやってくる岳人のかたたちは、まだ大糸線ができていなかったころです から、明科まで−松本から長野にいく途中に明科というところがあるんですけれども−そ の明科駅で、いったん降りまして、そこから、円太郎馬車っていう、いわゆる、とて馬車 っていうのですね、馬に引かれた馬車ですけれども、それに揺られて、大町にやってきた わけなんです。

で、そういう人たちがやってくると慎太郎は大喜びで飛出して出迎えたんですね。そし て、岳人たちに接する中で、都会へのあこがれだとか、自分もなんとか上の学校へ進んで さらに学問をしていきたいっていう思いを強くしていたわけなんですね。家族のものたち にとっては、慎太郎は大切な対山館の跡継ぎですから、当時の話ですから、「家の家業を 継ぐものが、上の学校へ進む必要なんかはないんだ」ってことで、反対されるわけなんで す。で、慎太郎はしかたがないから、こっそり夜抜け出して、入学試験を受けに行こうと 思うわけなんですね。ところがあとから家の使いに追い付かれて連れ戻されるっていうよ うなことがありましてね。とうとう進学するという道を諦めるわけなんです。


<家業を継いだ慎太郎と針ノ木峠>

諦めていやいやながら家業を継いだわけなんですけれども、いやいやながら継いだ家業 ですから、とても仕事に身が入るわけはないんです。毎日毎日遊んでばかりいましてね。 短歌を創ることと、山登りをすること、それだけが慎太郎の生き生きとする場面というか、 生きがいのような毎日だったんです。
そのころの慎太郎の歌に、

  雪の峰に吹き付けられし雲はまたにごりて暗き高原の町

というのがありますけれども、こんなのは当時の慎太郎の心を表しているんじゃないかな あと思います。それから、

  ひたすらに我が家業のみいそしめとおなじきことを母くりかえす

とか、

  宿屋の息子このなりはひのかなしさを歌えば母は黙したまえる

こんなような歌も残っているんですね。

それで、針ノ木峠にもそのころ初めて登るわけなんです。19才のときだったんですけ れども。当時遠山品右衛門という、黒部の山人ということでね、いわな釣りの名人だった んですけれども、有名なかたがいまして、このかたの案内でもって、針ノ木峠へ初めて登 山するわけなんです。

明日針ノ木峠の道を皆さん歩かれるわけなんですけれども、いまでこそとても歩きやす くなっているんですけれどもね、当時の針ノ木峠の道っていうのは、リチャード・チェン バレンて人が「悪絶険絶天下無比」っていうような表現をなさっているように、たいへん 険しいところで、とてもそう簡単には気楽な気持ちでは行けなかったようなところらしい んです。小暮理太郎っていう当時のかたがいらっしゃいますけれども、そのかたがね、当 時の針ノ木峠の説明をしてますけれども、お手もとにはないんですけれども、読みます。

「針ノ木峠は人も知る如く、明治9年に新道が開発され、数年の後にそれが再び破壊さ れてしまってからは、籠川の河原や雪渓をそまることなしに峠を通過することはほとんど 不可能であった。もしこれを避けて迂回しようとすれば、さらに多くの困難と危険とに遭 遇しなければならぬ。それがために針ノ木越えは悪絶険絶をもって世になりわたった。富 直線のいまだ開通せざる以前に信州方面から、立山に登るにはたいていこの峠を上下し、 黒部川を徒渉して、刈安峠、およびザラ峠を踰え、立山温泉に出て、そこから登山したも のである。そして、一度この道を通過したもので、皆その険阻なのに驚かないものはなか った。明治28年の8月初旬に自分が大胆にもただ一人、この峠を踰えて、立山へ登った ときは、平ノ小屋に着くまでに2日半を費やしたほどで、当時、赤城、榛名、妙義や男体、 浅間もしくは富士、御岳などのほかは山らしい山に登ったこともなく、また登山の危険な どということはいっこうに無頓着であったが、このときばかりは一人旅になれていた自分 も初めて山というものの恐ろしさを感じて、心細さにたえられなかったと同時に、また初 めて山というものが、少し解せてきたように思った。その後、信州方面から、立山に登る 人が年とともに増加し、黒部川には籠渡しなども設けられ、道もおおいに分かりやすく、 かつ良くなったとは聞いていたが、それでも針ノ木越えは登山の入門として、あらゆる過 程を備えた好個の教科書であるであるということにはだれも異議はなかったようである」
(山岳第20年針ノ木峠の林道 木暮T.7.2)
というようにたいへん急な険しいところだったようなんです。

しかも、慎太郎が白馬岳に登ったのは7月だったんですけれども、この針ノ木峠へ登っ たのは10月も終わりのころの初冬のころでしたので、登ったときに初雪なんか降ったり しまして、なんとも荒涼とした山々だったんです。そこから受けた慎太郎の印象ってもの は、白馬岳の美しい景色とはまた別の慎太郎の心の奥深くにある孤独な部分に直接うった えかけてくるものを感じたのではないかと思うのです。


<石川欣一との出会い>

こんなように山をくり返しくり返し登り、対山館へやってくるお客さんたちとの関わり 合いの中で、生涯のお友達となります石川欣一さんなんかともこのころ出会っているわけ なんです。石川欣一さんていうのは、ご存知のかたも多いでしょうけれども、東大の英文 科を出られて、プリンストンを経てから、毎日新聞の新聞記者さんをやっておられたかた なんですね。戦後、毎日出版局長を経て、サン新聞の社長さんなんかをなさったかたなん ですけれども、出会った当時は、まだ二高の学生さんで、お父さんは石川千代松といって、 当時高名な動物学者でした。石川欣一さんは最もスマートな山男だっていう評判だったそ うです。奥さんもなかなかきれいなかたでね、とても愛妻家だったようです。その奥さん の妹さんというのが、女優に東山千栄子さんていらっしゃいましたよね、そのお姉さんに あたるわけなんですね。

石川さんは絶えず大町へやってきて、山へ登ったり、慎太郎と話をしたりしながら、戦 争が始まって山に登れなくなるまで、家族ぐるみのおつきあいが続いていったそうです。 石川さんのほうで、慎太郎のお嬢さんたちを預ったり、慎太郎にはお嬢さんばかりで、息 子さんがいらっしゃらなかったので、石川欣一さんとこの息子さんを夏の間あずかって、 とても可愛がったりとかね、そんなふうな交流があったようです。で、この石川欣一さん を通じて、百瀬慎太郎は様々な知識人たちとの交流をもつことにもなったようなんです。


<結婚>

さて、慎太郎は山のことは一生懸命やっていたんですけれども、とにかく肝心の旅館の 家業のほうはおろそかだったもんですから、お父さんやお母さんはとても心配しているわ けなのですね、「ちょっと用事があるから出かけてくるわ」っていって出かけるとそれっ きり、鉄砲玉のお使いで、いつまでも帰って来なくてどこへいったか分からないっていう ような、そんな状態だったものですから、息子を落ち着かせるためには、嫁でももらえば 腰が座るんじゃないかというような話も出まして、「ちょうどいい娘がいるから、あの人 を貰おう」ってわけで、熊井みつるさんてかたが、豊科にいらしたわけなんですけれども、 そのかたをお嫁さんに貰うわけなんです。とてもいいかただったんですけれども、お嫁さ んを貰っても慎太郎のこの性癖っていいますか、山のことだけ一生懸命で商売のほうは身 が入らないっていうのは、生涯直らなかったようです。

たとえば、東京の方に出かけていきますね。で、「じゃこれから帰るハ」って電話があ ったそうなんです。で、「帰るハ」っていうから、ぼつぼつ帰ってくるかなあって、家の 人は待っているんですけれども、2日たっても3日たっても、ちっとも慎太郎は帰ってこ ないんですね。どうしたんだろう、どこへ行っちゃったんだろうて心配してますと、その うちに、電話が来まして、いま兵庫のどこどこに居るんだけれども、お金が無くなって、 もう困っているから、大至急金を送れっていうような、そんなような電話が来たりしたそ うです。


<山案内人組合の創設>

だんだんと鉄道なんかも発展してきて、大糸線がずぅっと松本から、伸びてきまして、 大正5年に信濃大町駅ができるわけなんです。信濃大町駅ができると同時に、大町まで、 直接電車でこれるわけですから、登山客なんかもぐぅーんと増えるわけなんです。当時の 新聞によりますと、登山客が900名に達したっていうことなんですね。いまから考える と、900名ってことはたいしたことないのかも知れませんけど、当時としては、たいへ んな人数だったわけなんです。

そんな登山熱の高まりの中で、案内人というものが、不足してくるわけなんです。いま みたいに地図がしっかりできていたり、道がしっかりしているわけではないので、山を登 る人にはどうしても山を案内してくれる人が必要になるわけなんですね。その案内人を見 つけるために、登山する人たちはとても苦労して、案内人を見つけるためだけに何日も旅 館に滞在していければならなかったというようなこともあるわけなんです、そういうこと が、いよいよ差し迫った問題になってきまして、しっかりした案内人が欲しいという声が、 ことに日本山岳会の中から起こるわけなんです。

ことに初期のころは、猟師さんなんかを雇ったりしていたわけなんですけれどもね、そ れだけでは足りなくなっていたもんですから、そういう声も受けまして、百瀬慎太郎が、 じゃ、ひとつここで、しっかりした案内人を育てていくことが必要だということを思いま して、百瀬慎太郎が声をかけて、大正6年に大町に大町登山案内人組合ってものを創るわ けなんです。これが全国で初めてのもので、大西又吉とか、伊藤菊十さんとか、伝刀林蔵、 勝野玉作とか、そういった有名な登山案内人を始めとして、総勢22名で始まったわけな んですけれどもね。

案内人を育てていくために、百瀬慎太郎は自分の恩師である河野齡蔵さんとか、矢沢米 太郎とか、八木貞助といった植物学とか、動物学とか、地質学とかね、そういったかたの 学者さんたちを頼んできて、講義をしてもらったりとかして、山についての知識を案内人 たちに教えていくわけなんです。そして、この大町山案内人組合は、となりの四ッ谷村を はじめ、日本全国に山案内人組合を成立させるきっかけとなったのでした。


<雪の立山針の木越え>

だんだん登山が発展してきますと、日本人も世界の山をめざすようになりました。そし て、槙有恒さんてかたが、アイガーの東山陵から世界初の登頂をなさいまして、あっとい わせたわけなんです。その槙さんがアイガーから帰っていらして、それと同時に西洋の登 山技術を日本に伝えたわけなんです。たとえば、それまでの日本の登山というのは黎明期 は、わらじだとか、きござを着ての登山だったわけなんですけれども、ピッケルですとか、 登山靴、そういった近代的な装備による登山に変ってくるわけなんですね、一方、スキー なんかも日本に普及してきていました。そういう時代背景をうけて試みられたのが、雪の 立山針の木越えというものなんです。

それまで山登りをするってことはほとんど、雪のない時期が多かったわけなんですけれ ども、積雪期に立山針の木を越えようという目論見を百瀬慎太郎と伊藤孝一という名古屋 の大富豪家だったんですけれども、このかたがとても慎太郎の人柄にひかれていて、惚れ こんでいたんですね。それで対山館に遊びに来ていたりしていたんですけれども、その伊 藤孝一さんと、燕山荘を創られた赤沼千尋さんてかたですね。その三人でもって、立山針 ノ木越えを積雪期にしようということを考えて実行するわけなんです。伊藤孝一さんの本 なんかによりますと、これはちょっとした思いつきで、慎太郎が開いたスキーの講習会の 後、こたつでいっぱい飲みながら、話をしているうちに窓から白銀に輝く山が見えて、あ の山をスキーですべったらさぞ愉快だろうなあってことから話が始まったことになってい るんですけれども、とても気楽な気持ちで始めたってふうになっているんですけれども、 実はそれぞれの胸のうちには前々からそれなりの思いがあったと思われます。伊藤孝一さ んてかたは富豪ですから、そんなに働く必要もなかったんですけれども、趣味で映画をと ても一生懸命やってまして、自分の趣味のために、映画を創る人を一人雇ってらしたほど 入れこんでいたんですね。ぜひとも雪山の映画を取りたいっていう目論見があったんです。 慎太郎は慎太郎で、スキーによる冬山の登山ってものをなんとかできないものかなあって 思いがずっと胸の中にあったものですから、「よし、ではやろう」ということになって、 思いつきではじめたようになっていますけれども、それなりの綿密な計画を立てて、充分 な手はずをととのえて出かけていったわけなんです。

ところがこれは偶然なんですけれども、慎太郎たちが雪の立山針ノ木越えをしようとし たその直前に同じ立山で、アイガーに登られた槙有恒さんとそれから板倉勝宣とおっしゃ るかたと三田幸夫さん、慶応の山岳部のかたたちなんですけれども、そのかたたちが遭難 をしまして、悲しいことに板倉さんが遭難死なさっているんですね。本当に慎太郎たちが いく直前の出来事だったわけなんです。そういうセンセーショナルなことが有ったすぐ後 で、また同じことを偶然なんですけれども、慎太郎たちがしようとしたものですから、当 時のマスコミが大騒ぎをしまして、またセンセーショナルに取上げるわけなんですね。弔 合戦だとか、決死の山ゆきだとか、そんなようなことで大騒ぎするもんですから、人たち よりも周りのほうがとても心配をしていたわけなんです。

一回目は大町のほうから入りまして、大正12年の2月20日ですけれども。大沢小屋 に一泊して、立山に登ろうという計画だったんです。これが吹雪がずぅっと続いて、天候 が悪くて、大沢小屋に泊まっているうちに、当時の小屋ですから、いまみたいによくなっ ていなくって、暖房のために火をたいたりしますと、煙が中に充満してしまいましてね、 目をやられて、涙がぼろぼろ出て、目が開けていられないくらいになってしまったわけな んですね。とてももういられないってことで、大町がわからの計画は断念していったん帰 って来るわけです。で、もう一回計画を練り直してやろう、やりなおそうってことになり ました。慎太郎はやっぱり大町の人間ですから、大町がわからもう一回やりたい、大町の 案内人を使ってもう一回やりたいと思ったんですけれども、伊藤孝一さんなんかは、ちょ うどその吹雪にとじ込められていたときに、なんとその吹雪の中を芦峅寺のほうの富山の ほうの案内人の人たちが立山を越えてやってきたわけなんですね。それを見たときに、こ れは大町がわからではなくって、富山がわから富山の案内人を使って、やったほうが、計 画がうまくいくだろうから、そういうふうに計画を変更しようということに意見をいうわ けなんです。そこでだいぶ百瀬慎太郎と伊藤孝一さんとが喧喧囂囂とやり合ったようなん ですけれども、赤沼さんが間に入って三人でうまく話し合いをして、百瀬慎太郎にしまし ても、冷静に考えて見るとやっぱり富山の案内人たちのほうが積雪期の山にはなれている のだから、やっぱりこれは富山がわからやったほうがいいなということで、第2回目は立 山のほうから富山を12年の3月4日に、出発して立山のほうから山を越えようというこ とになったわけです。やっぱり冬山ですから、何度か悪天候にはばまれましてね、3月4 日に出発したものの、立山にようやく登ったのは3月16日だったわけです。立山を下り て、それから針ノ木峠まで来たっていうのは 3月21日でありまして、その間はずっと 立山の小屋の立山温泉のところで、牢城をしていなければならなかったんです。ただこの 伊藤孝一さんって人が、とてもお金をかけていたので、食料ですとか、そういうものは十 分に運びこんであったので、そういう心配はなかったようなんですけれども、とにかくじ っと狭い小屋の中にいるわけですから、なんとか気分を沈まないようにしなければならな いわけですので、みんなで一生懸命お酒を飲んだりとか、歌を歌って騒いだりとか、して いるわけなんですね。その時のことを思い出して、慎太郎が作った短歌にね、こんなよう なのがあるんです。 

  温泉の倉庫に在りし酒といふ酒はみな飲みてほしけり
  酒きれてなめはじめたる変り玉食いも食ったり一貫と五百匁

それから

  戸の穴にボール紙もて作りたるばりのかけひは奥村の案

これは、外は吹雪いてて、おトイレなんか外へいってやらなければならないわけなんです けれども、寒くていやだからボール紙をもってきて小屋のすみにちょっと穴を開けまして ね、ボール紙でトイを作ってといのこっち側でおしっこするわけですね、そうすると自動 的に外にでるっていう、そんなようなことを考えだしたようなんです。

  政吉が見付けいだせし尺八の調べにそろえて歌う小原節
  板倉さんの飯盒の蓋が火に溶けしとしみじみとして八郎は語る

これはさきほどの、槙有恒さんや板倉勝宣さんたちが立山で遭難したときの話を案内人の 八郎ってひとがしてくれたってことのようですね。なんでも板倉さんがその最後のお昼と なったときに、飯盒で御飯を炊こうと思って火にかけたんだそうです。そうしたら普通飯 盒の蓋が火に燃えるはずなんかないのに、その日に限ってめらめらっと紙のように飯盒の 蓋が溶けてしまったってんですね。で、なんか皆嫌ぁな気持ちがしたんだっていう、そん なような話をそこでしたようなんですね。

その後黒部川の篭の渡しのロープが切れていて、修理をするために立ち往生したりとか、 雪の降る季節なのに雨が降ってとても危険な目にあったりとかいろんなふうに悪天候の中、 立山針ノ木で過ごしたわけなんですけれども、とにかく安全第一の登山を心掛けて綿密な 計画と慎太郎の的確な山での判断ですね、そういうものによって無事一行は立山針ノ木越 えを成功させることができたわけなんです。

この立山針の木越えを支えていたのは、伊藤孝一という人の莫大な経済力でした。最高 の案内人を何人も雇ってありあまる食料の手配をして行ったわけですから。けれども、も う一つの成功のカギは、三人のやろうっていう心意気と綿密な計画、そういうものがあっ たからではないかと思います。

このときにとった冬山の映画っていうのは、珍しいからってことで、反響をよびまして、 最後には天皇陛下にお目にかけるってことになりまして、伊藤孝一さんが皇居によばれて いくわけなんです。そのときに正装をしていかなくっちゃいけなくて、モーニングを着て シルクハットを被っていかなくてはいけないんですけれども、伊藤孝一というかたはとて も洋服が嫌いなかたで、和服党のかただったものですから、自分は絶対モーニングなんか 着ないっていいましてね、紋付羽織袴を履いて、それにシルクハットを被ってなんともア ンバランスな格好で、出かけていったようなんですけれどもね。

そういう反響をよんだ記録であり、映画だったわけなんですけれども、長い間日本の山 岳界ってものはこの記録を見て見ぬ振りをしていたっていうんですかね、そういったとこ ろがあったようなんです。それはたぶん一つは、槙有恒さんへの遠慮っていいますかね、 そういう悲しい事故のあった後だったからってこともあって、そのまま見過ごされていた みたいなことがあったんじゃないかと思います。最近になって、昨年かな、山渓の雑誌あ たりの伊藤孝一さん、百瀬慎太郎たちの冬の立山針ノ木越えの記録の記事がのってたりし ていますので、いまになってその価値が見直されたりしているようです。


<大沢小屋の建設>

この冬の山行が世間をあっといわせたわけですけれども、百瀬慎太郎自身に与えた影響 というのもあったわけなんです。といいますのはさきほども申し上げたとおり、第一回目 の計画が、失敗に終わるわけなんですね。それは一つには、大沢小屋の小屋がしっかりし ていなくて、冬山の長期の滞在に適していなかったということがあります。慎太郎は従来 の小屋の不備を知ったわけなんです。で、前々から赤沼千尋さんは山荘式の山小屋を燕山 荘というんですか、燕岳に作っていまして、慎太郎にもぜひ、山小屋をつくれ、つくれっ ていうふうに勧めていたんですけれども、百瀬慎太郎はうんといわなかったわけなんです。 といいますのも、当時の山岳をやる人の間に、そういう山小屋をつくって、お金をもらう のは山を冒涜することじゃないかっていうふうな考えがあったりしまして、赤沼千尋さん の随筆によりますと、自分が燕山荘をつくるにあたっては、日本山岳会をそのために脱会 までして、燕山荘をつくったんだっていうふうな記述がありましたけれどもね、そんなよ うな風潮がありまして、百瀬慎太郎も最初は山小屋を新たに作るって気もそんなになかっ たようなんですけれども、やはり登山客がどんどん増えてきますし、ことに登山の季節が 夏ばかりでなくって、冬場もやるようになってきますと、命の安全のためにも、しっかり した山小屋が必要だなっていうふうになりまして、大沢小屋の新しいのを建てたわけなん です。

それまで大沢にあった小屋は岩室小屋っていいまして、さきほどの河野齡蔵さんですね、 このかたが信濃教育会なんかに資金なんかもだしてもらったりして、県営の小屋が大沢に 一つあったんです。その建設にあたっては、慎太郎も十分力を尽くしていましたし、管理 のほうも百瀬慎太郎のほうでやっていたようなんですけれども、新たにそれとは別に新し い大沢小屋を、大正14年に作ることになったわけなんです。


<早大山岳部の籠川谷遭難>

この小屋が実際とても役立つときが来るわけなんですね。それが早稲田の学生さんの籠 川谷での遭難のときなんですね、スキーの普及で、冬場にスキーの練習なんかに皆さん来 るわけなんですけれども、そのときも昭和2年だったそうですけれども、早稲田の学生さ んたちが、2班に別れて、大沢小屋に入ってスキーの練習をなさっていたんだそうです。 けれども年の暮でもう明日はお正月だっていうようなときだったんだそうなんですけれど も、上のほうから雪崩がありまして、そこに巻き込まれて4人のかたたちが行方不明にな りまして、ようやく見つかったのはその次の年になりますけれども、そういう悲しい事故 がありました。

そのときの様子を紹介した記事ですね、これは山岳博物館へいってコピーさせていただ いたんですけれども。これは皆さんに後で読んでいただいて、私は別に、そのときの思い 出を百瀬慎太郎が語ったほうの文章をいま読んでみたいと思います。

「12月31日、まさに大晦日の未明に私は入口の大戸をたたく音に深い眠りから覚ま されたのであった。ときならぬという何かおののきに似た心持ちで、入口の板戸を開ける と雪帽子の頭がヌーッと二つ続いて入ってきた。「静かにして下さい」。かすれた音声で ある。見ると案内の大和(おおわ)と近藤正氏である。「何かあったんですか」と私は不 吉な予感で尋ねた。
「やられたです。」わずか数語のうちに、ああたいへんなことになってしまったという考 えが、私の胸をこわばらせた。夜の明くるにはほど遠い暗さの午前4時ごろであった。と りあえずストーブをたき付けたのであったが、さすがにリーダー近藤氏の注意深さは、す ぐ火にあたることは凍傷を起こす恐れがあるというので、まず疲労を休めねばならなかっ た。そこで私は奥の間に寝ていた弟を起こした。この場合、一大事勃発の対策についての 相談相手には、女衆に騒ぎ立てられるよりも良いと思ったのだった。何しろ夜が明けなけ れば何事もできない。そして二人の報告の大要を聞き取って、まず救援隊をおくるために 人夫を募集しなければならない。警察への報告は途中近藤氏が、野口の駐在所、及び、大 町の本署へしてきたのだった。このときの近藤氏の精神肉体に及ぼした過労は涙ぐましい ものであった。昨年午後3時ごろに大沢小屋をでて、普通ならば4、5時間の道程に13 時間も費やして、大町に到達しているのだ。しかも自身雪崩に埋没したのを掘り出され、 他の友人の捜索に奔走した後のこの労作である。新雪のラッセルをかわるがわるしながら、 焦燥と疲労困憊したこの努力は、一時も早く救援を求めて、山に残る友を安心させねばな らぬという一途の念願に外ならなかった。大町の暮れの31日の朝、家毎に松飾りの用意 ができて、明日は平和な三年の新年を向かえようとしていた。救援隊編制、このことは明 日正月だという日にあたって、まず大きな難事であった。私には年取りも元旦もなかった。 でもようよう、八方奔走の末、山案内人の中の屈強のもの、黒岩直吉ほか8人の者を集め、 食料その他の救援物資を持たせて送り出すことができたのだった。警察では地元消防組の 召集を行なった。活動を起こす、押し迫った歳晩の大町はにわかにざわめきたった。 早朝、早大山岳部の森田、出川2氏がこのアクシデントを知らずに第2隊として入山すべ く到着した。午後はOBの鈴木勇、四ツ谷竜胤、長谷川荘吉の三氏が穂高行きの途中、松 本で悲報を聞いてはせ着けた。続いて遭難者の遺族関氏、上原氏、山本氏の一家の人々が 来られた。そして大学側から大島山岳部長、崎田教授、根本、石田、牧野の諸氏が到着さ れた。県からは学務課長長沼越氏、体育主事中園氏が来られた。私は大町に居って斡旋を 引受け、弟孝男に人夫衆の指揮を命じて現場に向かわせた。深雪をついて強行、その夜の 11時に大沢小屋にたどり着いたのだった。その前に午後8時ごろに警察署員と平村消防 組員の10人が大沢に着いたのが先発であった。とにかく焦燥と不安のうちにもどうやら 段取りがついたのであったが、狭い大沢の小屋の混雑は想像にあまりあることながら、私 の家の対山館の混乱もまたひとしおのものであった。次から次へ報を聞いて飛びつける同 窓、友人、その他の関係者の応対も並大抵ではなかった。大島山岳部長を総元締めに学校 の今後の活動に処する組織は全く成り立った。埋没した4人の生命は望めないとしてもせ めて死体が発見されてくれればよいがとそれのみが一同の念願であった。

昭和2年の12月27日、第4回冬季大沢小屋生活に入山した早大山岳部員はリーダー 近藤正、家村貞治、江口新造、山本勘二、渡辺公平、山田二郎、富田英男、関七郎、河津 靜重、有田祥太郎、上原武夫の11氏と案内人大和(おおわ)由松君とであった。28、 29日は雪の中を途中の畠山に残してきた荷物を運んだり、これから正月にかけての生活 のための設営準備にくれた。30日午前10時ごろ、一同は吹雪をついて、トレーニング にでかけた。

新しい谷の雪を交代にラッセルしながら、本谷を電光形に登って行く。何度目かのキッ クターンの後、先頭が赤石沢を真向かいにしたとき、耳をかすめる吹雪の音以外の異様な 音響は一同をあっと思わせた。と同時に、近藤氏(この時先頭から2人目にいた)の「来 た、来た」という叫びと間髪を入れず、ものすごい雪崩は赤石沢から落下して来て、たち まち11人を巻き込んでしまったのであった。それは11時ころの出来事であったろう。 大きな惨事の起こるのはホンの瞬間の出来事である。このわずかな分秒に一行が仮にこの 赤石沢の落合地点を通過していたら、この雪崩をしりえに見流して、一同は素晴しいスリ ルを味わったに過ぎなかったであろう。それが運命というものであろうか。

遂に楽しかるべき第4回の大沢小屋冬季生活の記録はみじめにも痛ましい潰滅の状態に 踏みにじられてしまったのであった。遭難のその瞬間に11人のものが各自に受けた大き な衝撃、「やられた…」という最後的な意識は一様に「もう死ぬんだ」という覚悟を持た せたらしい。これは私の直接生還した7人の人の言葉から聞き得たものであった。11人 の溌剌たる命はこのとき雪崩の組織の一細胞として雪塊や石砕とともに猛然と谷一杯に押 し流されて、大沢の落合附近に到ってようやく静止の形に留まった。私にはこのおそるべ き自然の惨虐に、むしろ7人が助かったことさえ不思議なものに思われるのである。

雪崩の方向または各人の位置によって、埋没の深度も運ばれる距離も自ら異なるには相 違ないけれども、後に発掘された各人の位置は推定を許さないほど遠距離に亘っていた。 一番先に身体の自由を得たのは河津氏であった。次に片足を埋められていた有田氏を援け、 二人そろって3番目の渡辺氏を掘り起こした。夢中でお互いが友を求めて、狂気の如くで あった。富田、山田、近藤、江口と順々に雪の中から救われた。そして後の家村、上原、 関、山本の4人はついに探し求むることができなかった。不思議に助かった7人の焦燥も 努力も空しいものとなった。泣いても泣ききれないものであった。これが早大山岳部遭難 の後にも先にも無い悲しいキャタスタロフであった。

6人目に掘り出された近藤氏は始めかろうじて自由の利いた右手で自分の顔を覆う雪を 掻き退けて、ようやく呼吸の苦しさを免れたが、有田氏が泣きながら掘り出しに懸命にな っているとき、「俺は大丈夫、助かったから先に他の人を掘ってやってくれ」と指揮した という。さすがにリーダーの落ち着きを持っていた。

その日、この遭難直後の体で、大町まで急を告げるために精根を傾けての困苦は、氏の 強い責任感と英雄的行為であったと思われた。雪崩にあったときは、いちはやくスキーを 脱ぐことが肝要だといわれる。これが咄嗟の場合に、よく行なわれ得ることだろうか…。 山田二郎氏もこの試みをただちに実行しようとして、右足のスキーのビンディングを脱い だ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった。氏は小屋に残 っていた大和に救援を求めるため、現場からスキー無しの歩行を余儀なくされたときもあ せる心を反対に、深い雪に身体の活動がはかどらなかったのでゲートルをといて両手を巻 き包んで四ッ這いになったという。凍傷を怖れた注意深い思いつきであった。掘り出され たときに、全く人事不省の仮死状態だった江口新造氏を「活」を入れて生かせた富田氏は、 近藤氏下山後の小屋の炊事に薪割りに精力と元気を見せている。

そういった各自とりどりの姿が思われるとき、山友達の結ばれたまことに美しい友情が 描きだされるのである。山はついに若き4人の命を奪って終わった。これ以上我等の手で 捜索の力はない。その夜大沢小屋に残った6人の感慨ほど悲痛なものはなかったであろう。

  吹雪はやみて 月はいでぬ
  トボソ ほとほと うつは風か
  榾火 悲しく 燃ゆる夜半を
  帰れ友よ われら待てり

と亡き人を悼む西条八十氏の詩がこの夜を想い起こさせるのである。」
(「山岳夜話」 『早大生籠川谷遭難』百瀬慎太郎)

まだ続くんですけれども、そんなような経過で雪崩による遭難があったようなんです。こ の遭難の救助のために、慎太郎は東奔西走するわけなんですけれども、何しろ文章にもあ りましたようにお正月を控えているときだったものですから、とても人が集まらないわけ なんですね。警察のほうにも一生懸命早くしてくれって頼むわけなんですけれども、警察 のほうは警察のほうで、人手が集らないからとかなんとか言って、のんびりしててなかな か動きだそうとしなかったようなんです。で、慎太郎が業を煮やして、自分で一生懸命山 案内人を集めてね、独自の救援隊みたいなものを組織して、弟に指揮をさせて、出かけさ せたそうなんですけれども、そのことについて後から警察署長のほうから文句を言われた ようでね、勝手なことをしてもらっては困るみたいな、でそんなようなことから、百瀬慎 太郎は警察署長とその場で大喧嘩をして、たいへんな剣幕だったというような話を聞いて おります。

ようやく次の年の6月になってからですか、残る4人の方々の亡きがらが発見されまし て、遭難の捜索は終わるわけなんですけれども、その捜索にあたって、慎太郎がした働き はたいへん大きく、自分の損得抜きで私費を投じてその方たちの捜索のために様々な点か ら協力をしたようです。

<針の木小屋の建設>

この捜索活動のために、大沢小屋を何度も行ったり来たりするうちに慎太郎はやっぱり 山小屋というものは必要だなってことを思いをいっそう強くしまして、今度は大沢小屋の 他に針ノ木峠のほうにも、もう一つ山小屋を創ろうということで、針ノ木小屋を百瀬慎太 郎は創ることになります。ところがなかなか富山営林署の認可が下りなかったんです。そ こで、石川欣一さんのお父さんがちょうど富山のほうで蛍イカの研究をなさっていたもの ですから、石川千代松さんの力添えで、ようやく針ノ木小屋の建設にたどり着いたようです。

昭和5年に針ノ木小屋が出来上がるわけなんですけれども、出来上がった年の7月に慎 太郎はお父さんと弟と一緒に出来上がった針ノ木小屋へ出かけるわけなんですね。それま で慎太郎のお父さんは山小屋を建設したり、慎太郎が山をやるってことにはいい顔をして いなかったわけなんです。お父さんにとっては生まれて初めての山だったんですけれども、 そのしばらく後にお父さん病気になってしまいますので、最初で最後の山行きになるわけ なんです。慎太郎と登った針ノ木小屋のある針ノ木峠でずっとあたりを眺めながら、お父 さんが「ああ、山はいいなあ」て言ったんだそうです。それを聞いたときにようやく慎太 郎はお父さんに自分のやろうとしたことを理解してもらえたっていうか、そのときのお父 さんの言葉が慎太郎に与えた喜びは本当に大きなものであったろうと想像されます。


<対山館の全盛時代>

このようにいろんなことがありまして、大正末期から昭和の始めまでは大町の対山館の 全盛時代だったわけなんですね。大町の対山館は大町の地元の人たちにとっては若者たち のサロンみたいな役割も果しておりまして、いろんな人たちが集っては山のことですとか、 文学のことだとか、スキーのことだとか、一杯飲んだり話したりしながら、楽しいときを 過ごしていたようなんです。

この時期に久迩宮三殿下の登山なんてのもありまして、案内を百瀬慎太郎は仰せつかっ てちょうど針ノ木小屋に三殿下が来るわけなんですね。皇族の方々が見えるというわけで、 当時はたいへんな警備といいますか、警察が来たり、県の役人が来たりして、たいへんな 騒ぎだったようなんですけれども、戦前の警察はとても権力がありましたので、お役人の 方たちとかは威張っていたわけなんですね。

慎太郎は、権力を傘にきるような人間を嫌う人でした。身分の上下っていうか、分けへ だてなく接する人だったものですから、たとえばどこのどういう人か分からない薄汚いよ うな人でも気が合えば自分の家に連れてきて、一緒に酒をのみましょうなんて話をするみ たいな面がありましたので、権力を傘にきて、威張られると余計抵抗してみたくなるわけ なんですね。

たとえば久迩宮三殿下がみえるってことで、お酒も飲んではいけない、新聞なんかも殿 下にご覧に入れるのだから、しっかり消毒をして、囲炉裏で乾かして、それをご覧に入れ るっていうようなことをやっていたようなんです。慎太郎はとてもお酒が好きなんですけ れども、お酒なんかももちろん御法度なわけなんです。殿下が見えてる間は絶対お酒を飲 んだりしてはいけないっていわれたわけなんです。だから皆はその言い付けを守ってお酒 を飲まずにいるわけなんですけれども、百瀬慎太郎は平気な顔をして一升瓶を持出して御 飯茶碗と注ぐわけなんです。周りの人が心配して、お酒は御法度だからそんなことをした らいけないんじゃないかって、止めようとするわけなんですけれども、慎太郎は平気なも ので、これはお酒じゃないっていうわけなんです。これは御飯茶碗でここに箸をおいてあ って、箸を添えて飲むんだから、これはお酒じゃなくって俺は御飯を食べているんだって、 そんなことをいって、お酒を飲んだりしてたようなんですね。たいへんユーモアをもった 人でもありました。


<対山館廃業後の日々>

いろいろそういう華やかなこともありまして、対山館の全盛時代だったわけなんですけ れども、それがだんだんお客が減少してきます。一つには、大糸線が大町までだったのが、 だんだん延長していって、白馬まで延びるわけなんですね。だからそれまで、たとえば白 馬岳に登るには、大町で下りて対山館に一泊してそれから歩いて白馬のほうにいったんで すけれども、大町を通り越して、白馬までいってしまえるわけなんです。だから対山館を 利用しなくてもよくなってきたわけなんですね。

それと同時に、だんだん社会情勢が悪化してきまして、いよいよ戦争が始まるころにな ってきますと、それこそ山に登るなんてことは、とてもどうどうとは出来ないような雰囲 気になってきますので、山に来るお客さんがめっきり減ってくるわけなんです。そんなわ けで、対山館のお客さんが少なくなって、閑古鳥が鳴いているっていうようなことがずっ と続いてきたわけなんです。

ましてや山小屋のほうになりますと、ろくにお客さんもいないような状態になってきた わけなんです。そのような状態のなかでも、百瀬慎太郎は大沢小屋などで小屋番している 人に、早稲田の遭難のレリーフがあるんですけれども、そこに来る方たちが万が一いて、 その人たちが難儀をするといけないから、道の草刈りだけはしっかりしておくように、と いつもいっていて、早大のレリーフまでの道は必ずきれいになっていたっていうようなこ とですけれどもね。

そんなふうで、対山館がだんだん成り立たなくなってくるわけなんです。で、いよいよ、 対山館を廃業することになりまして、廃業してからはもっぱら慎太郎は家にいて、好きな 短歌をやってすごしているような、そういう日々が多かったようなんです。で、ようやく 戦争が終わってから、槙有恒さんが戦犯ということで職を解かれて長野県の違うところに 疎開していたんですけれども、世間というものは冷たいものでして、それまではちやほや していたような人でも、いったん戦犯という直接責任は戦争に加担したわけではないにし ても、要するに仕事の面で戦争に加担していたってことで、戦犯ということになったんで すけれども、そういう汚名を着た途端に世間がとても冷たい目でみるようになったわけな んですね。槙有恒さんが疎開先でとても苦労しているっていう話を聞いて、慎太郎はわざ わざ槙有恒さんを疎開先まで迎えにいくわけなんです。で、ぜひ大町のほうに再疎開をす るようにといって、槙有恒さんを大町のほうへ連れてくるわけなんです。で、再疎開先を 常盤へお世話しまして、慎太郎は自分も対山館という職が無くなったわけですから、二人 でそのへんの山に登ったり、近くを歩いたりして、時間を過ごしていたようです。

槙有恒さんの時にも警察と一悶着のエピソードがありまして、何しろ百瀬慎太郎は曲っ たことが嫌いな人です。それにとても面倒見の良い人だったんですね。他人がちょっと気 の毒な目にあったとか、そんなようなことを耳にしますと、自分のことのように考えて一 生懸命その人のために力を尽くすような人だったもんですから、槙有恒さんが常盤の疎開 先から、奥さんがいったん東京へ帰ったので、その東京へ帰った奥さんがまた大町へ戻っ てくるときに、大町の駅まで迎えにでたそうなんです。そのときにリュックサックを背負 って、雨の後で道がぬかるんでいるからといって、リュックサックの中に奥さんの長靴を 入れて出かけていったんだそうです。そうしましたところが、当時はちょうど闇物資とい いますか、リュックにいろんなものを入れたりして、いわゆる闇の商売ですか、そういう のが横行していたものですから、リュックがいやにふくらんでいて怪しいというわけで、 大町の警察の人に途中でつかまりまして、よくしらべもせず、リュックを取上げられてし まったわけなんですね。そんなような話を百瀬慎太郎は聞きまして、警察署長のところへ どなり込んでいって、何てことをするんだっていうようなことで掛合いにいったんだそう です。

昔、百瀬慎太郎が子供のころもそんなようなことがありましてね、これはリュックじゃ ないんですけれども、同級生の人が上級生に難癖をつけられて、いじめられたとかってい う話を聞いて、「何もしないのにいじめるとは何事だ」って、自分よりも身体の大きいそ の上級生と喧嘩をしたってことがあったっていうような話も聞いていますので、百瀬慎太 郎は何しろ曲ったことが大嫌いというか、相手がだれであろうと自分が許せないと思った ことのためには立ち向かっていくみたいな熱血漢であったようです。

戦後の百瀬慎太郎は槙有恒さんとともに山登りなんかしていたんですけれども、やがて 槙さんも戦犯を解かれて東京へ帰るわけです。そうなると一人残されて淋しくなるわけな んですけれども、その後は大町の観光協会をつくったり、それから槙さんたちとともに創 立した日本山岳界信濃支部の活動に尽力したり、相変わらず山の面では一生懸命やって いたわけなんです。

だから百瀬慎太郎さんはちょうど50いくつかで、まだ60にならないうちに亡くなっ てしまわれたわけなんですけれども、もし生きていれば、まだ様々な働きをしていたであ ろうなあという気がします。いよいよこれからだっていう、戦争が終わってようやく山に 人が帰って来て、山小屋も、閉じていた山小屋を再び、大沢小屋、針ノ木と開くわけです ね。針ノ木岳の小屋も一度解体して新しいものを建て直したりして、いよいよこれからと いう時期に病気のために亡くなってしまわれたわけなんですけれども、もしまだ長生きを されていたら、まだまだ山のために尽くされた功績が増えていったんじゃないかなと思い ます。


<針の木岳慎太郎祭>

明日皆さんが参加なさる百瀬慎太郎祭ですけれども、これの発端は対山館によく遊びに 来ていたりした平林武夫さんというかたがいらっしゃるんですけれども−大町の学校の先 生をなさっていた方で、この方ご自身なかなか名物な方だったんですけれども−そのかた が大沢小屋のところに百瀬慎太郎のレリーフを作ろうっていう話を持出しまして、平林武 夫さんたちが中心となって、昭和28年にレリーフを作るわけなんです。

その後慎太郎が亡くなって10周年の昭和33年に、慎太郎の10周年祭を始めるんで す。で、その次の年の34年からはそれがそのまま続いて慎太郎祭として、毎年行なわれ ていくようになるわけなんです。で、針ノ木岳の開山祭と合わせて、百瀬慎太郎を偲ぶお 祭りとしてずっと開かれてきているわけなんです。

最初はただ慎太郎祭、慎太郎祭といわれていたようなんですけれども、ちょうどそのこ ろ石原慎太郎というね、作家がでまして、「太陽の季節」などで、有名だったものですか ら、誤解なさる方がいて、慎太郎祭というと石原慎太郎のお祭りかなあというふうに間違 える人がいたそうで、それで針ノ木岳慎太郎祭というふうに、上に針ノ木岳をつけてお祭 りをするようになったんだということです。で、百瀬慎太郎が残した言葉として有名な言 葉にこの本の題名にもさせていただきました、「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」 というのがありますが、この言葉も、平林武夫さんというかたが百瀬慎太郎の言葉の中か らとりだして、広めていったようなんです。

まさにこの言葉のとおりでして、百瀬慎太郎という人は山と同時に山を通じて人との結 びつきといいますかね、慎太郎の影響を受けた平林武夫をはじめたくさんの人々がいて、 その平林武夫という人が「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」という言葉があったん だよというと同時に、ぜひ慎太郎祭という祭りを開こうじゃないかという動きも見せたり、 慎太郎を知る人たちが皆で、そういうなごやかなお祭りを続けてきているわけなんですけ れども、様々な人たちとの結びつきというものを大事にしてきた百瀬慎太郎であればこそ、 こういうお祭りも残ってきたんじゃないかなと思います。山を通じていろんな方たちと結 びついて自分も影響を受けながら、また自分の受けた影響を周りの人に還元し続けてきた 人であったなあということを、百瀬慎太郎のことをいろいろ調べながら思いました。
ご清聴ありがとうございました。